蛙狩り神事:話し合いを求めて諏訪へ

http://ameblo.jp/capin-blog/entry-12102747731.html

 

蛙くらい、いいだろうと言われます。
昔は人だった、

遠い時代。
河衆とは、虐げられた人々。

結界。四つの柱に囲まれて。
つかまったばかりの野犬ヨリ、イムのように、
怖がって、淋しがっている何かだと感じました。

雨をよける社もなく、
花もなく、
たどりつくまで踏み固められた道もなく。
垣根に隠されるように、ひっそり、静かに。
なぜだろう。


まっくらな丘を手探りで転びながらたどり着き、

土を頂き、手をあわせました。

岩波書店の創立者や、作家の平林たい子、ニラハウスやタンポポハウスで名高い建築家の藤森氏の故郷である、ミシャグジ信仰の聖地。

反骨精神に溢れ、権力に屈しない人々を輩出した土地、諏訪。

縄文土器と黒曜石の素晴らしい歴史と文化。

そして、無抵抗の命、
突き刺される
傷みを思います。

By 鶴田真子美

 

諏訪に行って参りました。当方では、理解を得るにはまず、顔を合わせての直接のお話し合いが何より大切と考えております。諏訪大社、神宮寺区長、氏子の方々との直接のお話し合いの場を求め、お時間を頂けますよう、諏訪の宿からご連絡をいたしました。が、神社本庁と神宮寺区長さんには面談をお断りされました。氏子の方々とはお会いしたくても連絡がとれません。個人情報のため、諏訪警察でも諏訪市役所でも連絡先を教えて頂けませんでした。氏子の皆様とのお話し合いの機会を、私たちはあきらめずに今後も求めていきます。

 

今回の諏訪訪問に同行下さった弁護士Santa.CHAIRAんが、文科省、宮内庁、環境省、神社本庁、諏訪大社宛に、下記の内容証明郵便を出されました。これは、諏訪警察と諏訪市役所にもご報告済みです。

冠省

 当職は、長野県の諏訪大社で毎年元旦に執り行われている「蛙狩神事」(かわずがりしんじ。以下、「蛙狩」といいます。)に反対する活動を、動物愛護団体等と共に行っている弁護士です。

 蛙狩は、川で冬眠している蛙を掘り起こして、神職らの手によって串刺しにする神事であり、罰則はないとはいえ動物の愛護及び管理に関する法律第2条第1項に違反する行為です。

 思うに、神道は、自然や命を敬い、清浄を貴び、万物の中に八百万の神々を見出すという、世界平和の要ともなり得る普遍的な宗教であり、海外からもそのような期待を以て見られていると思われます。

 のみならず、神道は、日本国の象徴であられる天皇陛下を最高位に頂く宗教であることから、神社には、特に配慮ある行為が求められます。

 それにもかかわらず、諏訪大社は、複数の動物愛護団体より数年前から、蛙狩の廃止を懇願されてきたにも関わらず、「伝承の神事」であることを理由に、今後も継続する意向であることを明らかにされています。

 当然ながら、違法行為を長年に亘って続けてきたことは違法行為を正当化する理由とはなり得ませんし、「五穀豊穣」や「国家安寧」を目的として蛙を串刺しにすることに合理性はありません。

 のみならず、諏訪市公共物管理条例第4条第2項に照らしても、諏訪大社は川を排他的・独占的に使用する権限を有していません。それにも関わらず、諏訪大社の氏子であると思われる男性数名は、蛙を保護するため川に立ち入った個人に対して、実力による排除行為を行ったため、当職は平成27年12月3日、諏訪警察署に被害届を提出致しました。

 日本国は、もし蛙狩を放置するとなりますと、単に一個人や一宗教団体が神事と称して生贄を行うことを容認する国であるとの評価を受けるにとどまらず、神道の最高位におられる天皇陛下や、天皇陛下を象徴とする日本国に対する世界的なイメージまで大きく損なわれる可能性があります。

 ご存知の通り、動物愛護は人権尊重にも繋がる重要な世界的潮流であり、物言わぬ無抵抗な蛙は弱者の象徴でもあります。

 来年は諏訪大社の御柱祭の年であるだけでなく、天皇陛下による植樹祭が長野県で行われるため、国の内外から、諏訪大社に注目が集まることが予想されます。現在のところ未だ蛙狩は世界的に広まっていませんが、蛙の活け作りを提供する料理店が海外から非難されたように、神事と称して蛙を串刺しにする蛙狩も、いずれ強い非難を浴びるであろうと思われます。

 貴庁らにおかれましては、来年以降の蛙狩を廃止するよう、諏訪大社にご指導下さいますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。

                                                                                                                草々

   平成27年12月4日

 

                              Santa CHIARA

 

〒100-8959

東京都千代田区霞が関3-2-2

文部科学省 御中

 

〒100-8975

東京都千代田区霞が関1-2-2

環境省 御中

 

〒100-8111

東京都千代田区千代田1-1

宮内庁 御中

 

〒151-0053

東京都渋谷区代々木1-1-2

神社本庁 御中

 

〒392-0015

長野県諏訪市中洲宮山1

諏訪大社 御中

 

**********************************

 

元旦の朝の抗議行動に参加される方は、fwin5675@nifty.com

までご連絡ください。

 

蛙くらい、いいじゃないか、と言われます。

でも、蛙から、なのです。

 

物言わぬ無抵抗な蛙は弱者の象徴でもあります。

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コメント: 115
  • #1

    鹿の首 (水曜日, 23 12月 2015 23:58)

    どう考えても、活動の方向性が違うと思います。

    こういったことにこそ、どう対処すべきか、愛護団体として取り組むべきではないでしょうか
    地元の皆さんにも、鹿にも感謝されます。
    http://www.nagano-np.co.jp/modules/news/article.php?storyid=34593
    http://www.pref.nagano.lg.jp/yasei/sangyo/ringyo/choju/hogo/shika-3ki.html
    あなたたちの活動は、井の中の蛙を追うばかりで、カエルにも鹿にも地元の人々にも地球にも感謝されていませんよ。

  • #2

    (木曜日, 31 12月 2015 01:15)

    「蛙を保護するため川に立ち入った」と言う行為はその場の状況を含め
    客観的に見て「神事に乱入し神事を汚したおかしな人」と映っています
    こんな行為をしておいて対話を求めるのは難しいでしょう
    例えるならぶん殴ってから「お話しませんか?」と言うようなものです
    特に諏訪信仰については奥が深くどれだけ勉強しても一筋縄では行きませんよ
    また動物愛護に関係なくですが
    「蛙狩神事」に限らず「神事の最中に騒いだり汚したりする行為」には
    日本人なら少なくとも嫌悪感を覚えるはずです

  • #3

    串刺しにされて殺される動物 (木曜日, 31 12月 2015 07:09)

    串刺しにされるカエルの身になって考える。
    動物愛護とは、そういうことから始まるのだと思います。
    方向性は正しいですよ。

    カエルを虐殺する神事に嫌悪感を覚えない日本人は、多くないと思います。
    守るべき神事かどうか、全貌を公開してから世に問うべきです。

    蛙狩の対象は、元は虐げられていた人間でしょう。
    起源は、国家統一の頃まで遡らないと見えてこないと思います。
    ある意味、諏訪大社やその分社は、重要な役割を果たしてきたと言えるかも知れません。
    いずれにせよ、串刺しにするのはカエルの形をした置物で十分です。

    信教の自由は大切ですが、カエルの串刺し神事まで保護に値するかどうか。
    一方、生命を守るために神事の是非を世に問うことは、重要な表現の自由です。

    諏訪大社は5年間、動物愛護団体からの神事廃止の要請を拒否して来られたとか。
    今後の動向を皆で見守りましょう。

  • #4

    haako (木曜日, 31 12月 2015 16:45)

    海外に住むものです。神道の教えは日本の宗教として世界に受け入れられています。
    そして、神道では自然界の万物に神が宿り畏敬されていると信じられています。
    何の罪もない動物を意図的に残虐な方法で殺し生贄のように扱う野蛮な風習はその本義に反しているのではありませんか。今はインターネットで画像や映像が世界中にふれまわる時代です。日本の神道を汚すような時代転倒的な恥ずべき行為は控えてください。

  • #5

    君塚 (木曜日, 31 12月 2015 17:45)

    我が家は先祖代々神道です。このような無意味で残酷なことが、この時代に平然と
    行われていることに大変、驚いております。
    諏訪大社のような高名な社だからこそ、命の重さを大切さを伝えて行くべきです。
    この意見は、口頭で諏訪大社にお話しいたしました。
    生きた蛙を使う必要性をお伺いしましたが、とうとう回答は得られなく残念です。
    同じ神道として恥ずかしいです。
    強く抗議してください。
    生きたものの命を奪う見世物は神事などではありません!

  • #6

    片岡照仁 (木曜日, 31 12月 2015 20:12)

    時代が変わるのだから儀式も変わるべき。 神だってそんな事は望んでいないと思う。 また望むならそれは神ではない。

  • #7

    中川喜美子 (木曜日, 31 12月 2015 20:29)

    この儀式を見て、人は何を感じるのでしょうか。この儀式をする諏訪大社に人々は何を感じているのでしょうか。この儀式から命の尊厳を感じる人がいるのでしょうか?無抵抗な動物を串刺しにして殺すことで命の尊厳をうたうのであれば動物、生き物に頼らず自身の身体で表現していただきたい。

  • #8

    sap (木曜日, 31 12月 2015 21:30)

    子供の頃、川で捕まえたおたまじゃくしを、石の上で潰して遊んでいた私、大人になって思い返すと、なんと言うことをしていたのだろうと脂汗の滲むような思いがします。
    カエルと言えども命ある存在です。何とか命を生かすやり方に変えていただきたいです。

  • #9

    尾形康子 (金曜日, 01 1月 2016 10:24)

    現代にまだこんなに残酷なことを、あろうことか神社が行っているだなんて本当に驚きました。間違っている。オリンピックを控えた先新国家がこのような行いをしていることが知れたら世界の人は日本人をどう思うでしょうか。とても恥ずかしいことです。

  • #10

    伊藤孝宏 (金曜日, 01 1月 2016 12:27)

    自分達の正義を押し通すためには神事にも乱入して邪魔して、参拝客を新年早々嫌な気分にさせてることにも自覚せずドヤ顔でいられるんですね。
    やってることが小さくセコい。
    神事に蛙を使うことの是非は、これまでの歴史から考えるに、
    覆すには非常に長い時間をかけて、じっくりと話し合いを「試みる姿勢」
    から始めるべきですが、これまでの流れを見るに性急すぎると思いますよ。
    また、被害届どうこうの流れも余計相手を挑発することになって、
    交渉を困難にするでしょうね。

    ようするに極端すぎるんですよあなた達。

  • #11

    村山孝作 (金曜日, 01 1月 2016 16:41)

    我々は日々、カエルを殺して作った土地で暮らし、カエルを殺して作った服を着て
    カエルを殺して育てた作物を食べていることについてはどう考えればいいのでしょうか。
    ブルドーザーで掘り起こされて死んでいく何万匹のカエルたちの死は残酷ではないのでしょうか。

  • #12

    花さん (金曜日, 01 1月 2016 18:08)

    カエルはよく車に轢かれて死んでいて、可哀そうだけど仕方ないのだろうと思うことが多いけど、この神社の人達は、いい大人がガキの悪戯みたいなことを、神事と言って堂々とやっている恥ずかしい人達ですね。
    やっぱり海外に知れ渡ると、恥ずかしすぎると思います。

  • #13

    村山孝作 (金曜日, 01 1月 2016 18:48)

    車に轢かれたカエルは仕方がないと言い切っていいんですか。
    人間の都合で抗うすべもなく、生きたまま押しつぶされて死んでいくんですよ。
    同じ残酷な死を一方はガキの悪戯だからやめろといい、一方は生活の利便のためにしょうがないと言いう。
    真にカエルの身になって考えるのならば、人間の二枚舌に腹が立つと思います。

  • #14

    haako (金曜日, 01 1月 2016 19:00)

    事故で死ぬ場合と、故意に残酷に殺されることが見世物のようにされることとは、大きく違います。

  • #15

    アルト (金曜日, 01 1月 2016 19:41)

    捕鯨問題もそうだけど、「自分が」可哀想だと思ったから、「自分が」残酷だと思ったからっていう単なる主観的な感情論を絶対的な正義として振りかざす人間ってどういう頭の構造してるんだろう
    ほんと理屈も何もなくただ可哀想!残酷!ってだけだから話が通じないよね
    そういうお前は日々大量の微生物を殺しながら生活してるくせにな

  • #16

    村山孝作 (金曜日, 01 1月 2016 20:22)

    確かに、カエルを轢き殺してやろうと思って車を運転する人などいないでしょう。
    でも、カエルが死ぬ可能性が当然あると分かっており、そうなってもいいと思って車を運転しているわけですよね。
    そういった心理状態を法的には未必の故意があるといいます。
    つまり、故意にカエルを殺しているといえるわけです。

    また、そもそも道もなかったところを切り開いて、道路を作って車を走らせたのは人間です。
    その前提をわざと無視して、「事故なんだから人間に責任はない」と言い逃れることは誠実でしょうか。

    無視され、省みられることもない道端の何万匹のカエルの死と、見世物になったというだけで特別視される数匹のカエルの死が、「全く違う」というのは
    あまりにも見世物にならなかったカエルさんがかわいそうじゃありませんか。

    また、見世物として殺される動物もいくらでもいます。

    生きた虫を針に串刺しにして、生きた魚にそれを飲み込ませて、陸上に引き上げる残虐な遊びをしている人々についてはどう考えますか。
    魚やエビを生かしたままで捌き刺身に作ったものは、毎日消費されています。マグロ解体ショーなんてのもあります。イカやタコにいたっては踊り食いをします。
    また、狭い水槽で一生過ごす水族館のイルカショーは残虐な死の見世物ではないのでしょうか。イルカに海に戻る権利などありません。狭い水槽の中で死んでいくだけです。

    なぜカエルだけが問題となるのでしょうか。

  • #17

    XTR (金曜日, 01 1月 2016 20:24)

    http://togetter.com/li/920009
    ご査収ください
    あなた方はISISと同じ、これが世間の反応です

  • #18

    haako (金曜日, 01 1月 2016 23:19)

    狭い水槽で一生過ごす水族館のイルカショーは動物虐待の見世物だという考え方が現代では先進国の間では広まっています。その他にも、抵抗できない動物を残酷に扱って(お互いに競わせたりすることも含む)人間の商業目的娯楽目的に使うことが人道に反すると考える人々が増え始めています。日本は神道と仏教の国ですから、本来殆どの人々が最初からそのような考え方をしていると思います。しかしなぜか先進国であるはずの日本が動物福祉に関しては後進国並みなことが残念です。。

    国が社会的精神的に成長することにより地球規模で物事を考えることができるようになるそうです。今まで人間中心に我武者羅に土地等を開発し(道路施設建設など)自然破壊をしてきた段階から進歩し、自然を守り自然と共存し地球を荒廃から守らなければ人類も滅ぶことが分かってきたからです。けれども、それには多くの人々の理解と努力そして長い年月が必要なことは言う間でもありません。

    ところで本題にもどりますが、時代錯誤の悪習は改めるべきです。古代、日本などでは建物を立てる時に人柱を使ったそうですね。今でもそうしていますか。世界中で奴隷を使う習慣がありましたね。今でもそうしていますか。人と猛獣を戦わせる娯楽がありましたね。いまでもしていますか。等々。

  • #19

    村山孝作 (土曜日, 02 1月 2016 02:08)

    「人道的である。」ということの判定基準は先進国の間で広まっているかどうかなのでしょうか。テロリズムもヘイトスピーチも先進国で広まっていますが、人道的ですか。
    後進国の残虐な習慣を先進国の優れた思想でやめさせよう。という発想は、恐ろしい危険性を孕んでいます。時代によって、文化や習慣によって「残虐」という言葉が指す範囲は変化してきました。にもかかわらず安易に価値観の異なる人々に対して乱用されています。異なる価値観をもつ人々に対して一方的に決め付けて非難すること、これはすなわち人種差別です。

    蛙狩神事は合理的ではないですが、そもそも「五穀豊穣」や「国家安寧」などの目的を合理的に達成する宗教行事なんてあるのでしょうか。つまり、宗教的行事それ自体が常に不合理なものなのです。

    真剣にカエルの事を考えているのならば、道端の何万匹のカエルの死について、今すぐ対策を考えるべきです。社会的精神的成長とやらに長い年月をかけている間にも、何万匹ものカエルは道路で轢き殺されているんですよ。そんな悠長なこと言っている人間が、真剣にカエルの立場になって考えてるとは思いません。神社で殺されたカエルだけ問題にするのなら、ただのカエルの死の政治利用です。
    また、もし仮に、あなたのいう国の社会的成長が成功したとします。今まで散々と開発を進め自然を破壊して、自分が滅びそうになると突然「これからは地球規模で物事を考え、自然を守る自然と共存していくんだ!」なんていう人類が信用できますか。人間が生き残るために自然を守るのならば、自然との共存と保護の範囲も人間の都合で決めるだけでしょう。
    なぜ、人間だけが精神的に成長し地球を代表できるのですか。
    それはつまり、種に基づく差別を肯定しているのではないですか。

    人柱や剣闘士が時代錯誤の悪習となったのは18世紀に人権概念が発明されたからです。
    奴隷制度が時代錯誤の悪習になったのは奴隷解放宣言で黒人が人間と認められたからです。
    つまり、いずれの問題も人権の観点から批判された問題です。
    カエル殺しは人権の観点から批判されるべき問題なのでしょうか。

    もしかしたら、イルカショーも釣りも、踊り食いも解体ショーも
    道路のカエルは車で轢き殺していいということも時代錯誤の悪習とされる時代が来るのかもしれませんね。

    ではさまざまな時代錯誤の悪習の中で、なぜ蛙狩神事だけが問題となるのでしょうか。お答えください。

  • #20

    新城 (土曜日, 02 1月 2016 04:17)

    余所者は黙ってろとしか言えないですね
    鹿の生首もそうですが鹿島と諏訪大社とその祭神がどういう歴史を持っているか調べたら神事に文句付けるとかとても言えない筈ですがその辺はどうでもいいんでしょうか
    仮に蛙の代用品を使わせたとして、それでもし神の怒りを買って諏訪地方が災害に見舞われたとしても自分たちの所為ではないと言うんでしょうね
    科学的根拠がないとか、非科学的だとか否定するのは簡単ですけど仏と違って神は祟るのですよ
    続いてきたものには意味があるのです
    不吉だからと水害の名残の地名を変えてしまった結果、東日本の震災でどれだけの家屋が被害にあったか覚えてませんか?
    長い年月、神域たる神社で守り続けてきたものにも当然意味はあります
    蛙がかわいそうだからとあなたがたが神事を汚したり変えさせた結果、これから先にどれだけの被害が出るのか、予測できますか?その結果の責任を負う覚悟はあるのですか?
    安いヒロイズムで地元に迷惑掛けるのは止めてください
    何の為に人死にが出ても御柱祭を続けてきたと思ってるんですか?
    神事をしてきたから災害が起きなかったと証明することは私にはできませんが、同じくあなたがたも神事を邪魔した事で災害が起こっても自分たちの所為ではないと証明することは出来ませんよね?
    動物愛護に反する、違法だ、悪習だと切り捨てることは簡単ですけど、その結果まで考えた上で行動してください。何かが起こったときに被害を被るのは言い捨てたあなた方ではなく、その地に住む人々、そしてあなた方が守りたかったであろう蛙ちゃんたちですよね?

  • #21

    藤原 (土曜日, 02 1月 2016 10:31)

    偶然ですが、この祭祀を行っていた関係者の家族の話を聞いたことがあります。地元の人でも蛙がこのような末路をたどることはあまり知られていないということでした。また蛙は前もって他所から用意しておくとも。
    必ず元旦にその川で蛙が捕れるという諏訪大社七不思議というのも信憑性が低いようです。

    地元の方々に深く根付いているようでもありません。

    賛否はともあれ大勢の人が知って考えていく貴重なきっかけになったと思います。

    個人的には。これだけ大きな神社さんですから広く一般に受け入れられるようになっていただきたいと思います。


  • #22

    罰則 (土曜日, 02 1月 2016 14:33)

    諏訪大社は、諏訪市公共物管理条例違反の行為(懲役や罰金もある)を、ずっと続けてきたのですね。今回のことで知りました。神社が違法行為をしていたなんて…。
    もし懲役になるとしたら、宮司さん?それとも氏子さん?

  • #23

    村山孝作 (土曜日, 02 1月 2016 17:12)

    こちらで条例違反の行為として問題とされているのは、川を排他的・独占的に使用する権限を有していないのに、諏訪大社が個人に対して、実力による排除行為を行ったということですね。

    私は実際にそのような行為が行われたかどうかは知りません。
    ですが、本質的な問題はそこにあるのでしょうか。

    川を使用する権限の問題は、行政の許可の問題です。
    個人に対しての実力による排除行為は私人と私人の問題です。
    川の使用許可が降りれば蛙狩神事には何の問題もないのでしょうか。
    実力による排除行為がなければ蛙狩神事には何の問題もないのでしょうか。

    また、法律に違反するからカエルを殺してはいけないのでしょうか。
    それはつまり、法律違反でないならカエルを殺してもいいということになります。

    条例も法律も人間が作った、人間の自分勝手な理屈に過ぎません。
    また何を残酷だと思うかも、人間の自分勝手な理屈に過ぎません。
    それをカエルを代表しているかのごとく、蛙狩神事は残酷だからやめろとか、条例違反だからやめろと言っている間にも、
    人間に殺されて死んでいく何万匹のカエルたちはどう思うでしょうか。

    懲役になるような悪人である宮司や氏子はカエルを殺してはいけなくて、
    普段から動物のことを考えている善人なら、
    車でカエルを轢き殺してもいいのでしょうか。

    それが真にカエルの立場になって考えることなのでしょうか。

  • #24

    (土曜日, 02 1月 2016 17:14)

    なぜ蛙狩だけが?という疑問もわからなくはないです。
    でもだからこそですよ。多数の問題があるのだからこれも良いという思考だと、
    犠牲が増える一方で、何一つ前に進めません。
    これだけの動物の犠牲の中で暮らしている私たちに出来る事は「感謝」じゃなくて、
    実際に少しでも犠牲を減らしていく努力なのでは?
    考えひとつ変えるだけで助かる命があるならば、そうするべきではないですか?
    考え出したら、あれもこれも・・となりますが、自分の矛盾はどうだって良いんです。
    白黒主義ではなく、少しでも犠牲を減らす方向で考えられる人が
    増えればよいなぁと願ってます。

  • #25

    動画を見た感想 (土曜日, 02 1月 2016 17:56)

    昨日の動画(You Tube)を見たら、氏子さんの御説より、川に入った人?の訴えのほうが、心に響きました。
    命を奪おうとする団体と、命を守ろうとする団体の戦いですね。怪我人は出なかったようで良かったです。
    非公開で神事を行ったというのは嘘かなと思いました。非公開でカエルを串刺しなんて、気味悪すぎます…

  • #26

    村山孝作 (土曜日, 02 1月 2016 18:39)

    だからこそですよ。というのは答えになっていません。

    なぜ、蛙狩神事に対する抗議活動が、実際に少しでも犠牲を減らしていく努力になるのか説明してください。
    なぜ、儀式として殺される数匹のカエルを救うことで人々は一つ前に進めたことになるのでしょうか。

    実際に人の犠牲となる何万匹のカエルは人間の自然開発によるものなのに、カエルの死を時代錯誤の悪習という問題に置き換えて提起することが、
    実際に少しでも犠牲を減らしていく努力なのでしょうか。
    これは問題を不当に矮小化しているとしか思えません。

    残虐な見世物としてではないのならカエルは殺してもいいんだという価値観が根付くことによって、
    道端でカエルを轢き殺させることが止められるのでしょうか。

    環境破壊のよるカエルの生息域の減少が、神社に抗議することで止まるのでしょうか。

    また、少しでも犠牲を減らす方向とはいったいどういった方向なのでしょうか。
    カエルの犠牲を減らす方向もあれば、犬や猫の犠牲を減らす方向も存在します。
    イルカの犠牲を減らす方向もあれば、微生物の犠牲を減らす方向も存在します。
    それがどうつながっていくのか。
    そこに具体性が無ければ、何も言っていないのと同じです。

    また、動物の権利という考え方は、必ず人権とぶつかります。
    実際に、イルカのほうが漁民よりも、ブリを餌とする権利があるという主張が行われた裁判がありました。
    そのようなときに、自分の矛盾はどうだって良いんです。と、法廷で主張できますか。そのくらいの覚悟はありますか。

    そうでないのなら、社会運動として、あまりにも無責任ではないですか。

  • #27

    諏訪太郎 (土曜日, 02 1月 2016 21:51)

    古来から伝わる神事と動物愛護を同一に考えること自体がおかしなことであると思ってください。
    古来からの風習を否定することは、この国を否定することです。きみが悪いとか、犠牲になるとか議論にもならない話だとは思いませんか?
    数千年続く神事は、大切なものであり変えてはならないこともあるのです。私は変えてはならないことだと思っています。

  • #28

    haako (土曜日, 02 1月 2016 22:14)

    では、冬眠中の蛙を掘り出して生きたまま串刺しにし苦しみながら死なせることがなぜ万物を神として敬う「日本の神道」の神聖な「神事」なのかをご説明ください。

  • #29

    村山孝作 (土曜日, 02 1月 2016 22:50)

    蛙狩神事が神事であるのは、宗教団体が宗教的行為として行っているからです。それ以上に合理的な説明はできません。憲法に認められている、信教の自由の基づくものです。
    また、宗教団体の行う宗教的行為が、教義に照らし合わせて不合理かどうか判断するのも、その宗教団体内の自由です。

  • #30

    ありがとうございます。 (土曜日, 02 1月 2016 22:53)

    日本にもやっと、こういう抗議活動をする団体が出てきたことに、安堵を覚えます。
    しかも相手は、神道というアンタッチャブルな雰囲気のある宗教団体。
    どういう相手であっても、間違っていることには徹底的に抗議していくという姿勢が大切なのだと、改めて感じました。

  • #31

    新城 (土曜日, 02 1月 2016 23:03)

    日本の神に何か夢を見てませんか?
    神事は神聖なものとは限らないし日本の神はわりと血を要求しますし本来祭りも血生臭いものです
    生け贄捧げてしずまりたまえってやるのが元々の神事ですよ
    人間なんか神に比べたらちっぽけなもんですし精一杯やれることをやるしかないんです
    つうかお諏訪さまに喧嘩売るとか身の程知らずにも程があるね!触らぬ神に祟りなしってここの神様のためにあるようなもんですよ古事記と日本書紀三千回読んで出直していただきたいマジで

  • #32

    諏訪大社神事の動画を公開して下さい! (土曜日, 02 1月 2016 23:15)

    他のサイトで何人かが言っていますが、串刺しにされるのが犬や猫なら、本当に大変なことになっているでしょうね。
    カエルならOKかどうか考えるためにも、諏訪大社には神事の動画を公開してもらいたいですね。
    でも、絶対に公開しないだろうと思います。悪いことをしているという自覚はあるから。その自覚が、救いと言えば救いです。

  • #33

    村山孝作 (土曜日, 02 1月 2016 23:18)

    自然開発や環境破壊による何万匹のカエルのむごたらしい死を見殺し、たった数匹のカエルの死だけを取り上げて
    神社に抗議することで溜飲を下げ、カエルを代弁したつもりでいる。

    ブルドーザーが冬眠中の蛙を掘り出して生きたまま串刺しにし苦しみながら死なせることについては、どうお考えでしょうか。そのように殺されていったカエルはおそらく、何万匹もいるでしょう。

    このような不誠実なあり方が、正しい抗議活動といえるのでしょうか。
    自分たちの誤りに気づかないで、どうして他人の間違いに気づけるというのでしょうか。
    このような抗議活動をする団体が出てきたことが、日本の動物愛護活動全体を貶めることになりかねないことに不安を覚えます。

  • #34

    信じられん (日曜日, 03 1月 2016 00:16)

    諏訪大社の神職はカエルに串を刺してるのか?
    カエルを裏返すと人間の赤ん坊にそっくりだが。
    諏訪大社の神職も氏子も、神事だと言われたら人間でも殺しそうだな。
    なんで諏訪ではそうなるんだ?
    鹿75頭を殺すのを自主的に止めたのなら、カエルを殺すのも自主的に止めれるだろう?

  • #35

    村山孝作 (日曜日, 03 1月 2016)

    人間の赤ん坊にそっくりなカエルに、串を刺すから問題なのでしょうか。
    それでは、人間の赤ん坊に似ていない動物は串にさしてもよいのでしょうか。

    カエルを殺すことと、人間を殺すことは同じことでしょうか。
    また、カエルを殺すことが、人間を殺すことにつながるのでしょうか。
    現代の日本では、神事であろうと無かろうと一般人が人を殺すことは認められません。
    道端のカエルを轢き殺した人は、人間も轢き殺すのでしょうか。

    宗教団体がどのように宗教的儀式を行うかは、その宗教団体内の自由です。自主的に止めるか止めないかを決める権利はその団体にあります。
    外部の人間が、儀式のやり方を強制することは出来ません。

  • #36

    haako (日曜日, 03 1月 2016 01:23)

    「蛙狩は、川で冬眠している蛙を掘り起こして、神職らの手によって串刺しにする神事であり、罰則はないとはいえ動物の愛護及び管理に関する法律第2条第1項に違反する行為」とあります。
    とにかく強制することはできないでしょうが抗議することはできます。民主主義の時代ですから。
    この「民主主義」という言葉さえ明治時代に作られた和製漢語です。その前はその概念が日本にはまだなかったんです。このように時代は変わってきているのです。悪習に固執するのは辞めましょう。
    太古の時代の生贄は人間の場合もありましたね。そんなことはもうだいぶ前からしていませんね。ですから私達と同じように痛みと苦しみを感じることのできる動物を使うこともこの時代に率先して辞めてくださることを願ってやみません。

    またこの問題と直接関係ありませんが、今まで人間の都合で虐げられ続けてき抗議すらできない弱者の象徴でもある様々な動物達を代弁する自由も私達にはあります。

  • #37

    村山孝作 (日曜日, 03 1月 2016 02:24)

    では、なぜ法律に違反しているのに罰則がないのでしょうか。
    カエルが両生類であるからです。動物の愛護及び管理に関する法律では両生類を動物に含めていません。

    つまり、カエルを殺すことを法的に裁くことは出来ません。

    不誠実な抗議に、抗議することも出来ます。民主主義の時代ですから。
    「民主主義」は人間の集団の意思決定制度です。
    「民主主義」が明治時代に広まったことと、蛙狩神事を止めさせることにどのようなつながりがあるのでしょうか。

    神事として数匹のカエルを殺すことが、悪習であって
    道で何万匹のカエルを轢き殺すことは、悪習ではないのでしょうか。
    何が悪習であるか決める権利はあなたにしかないのでしょうか。

    人間を生贄にすることを止めたのは、人権概念が普及したからです。
    動物を使うことを止めて欲しいと願うことは自由ですが、本気で止めさせようとするなら論理的に人を説得する以外にありません。
    それが民主主義のルールです。

    動物の代弁者を自認するのは自由ですが、異なる価値観をもつ人々に対して「悪習」という価値観を一方的に決め付け、
    非難する人々が、民主主義社会の中で動物の代弁者として、
    社会に認められることは難しいと思います。

    様々な動物達を、弱者の象徴とするのも、また人間の都合です。
    神社のカエルは弱者の象徴で、道端のカエルは弱者の象徴ではないのでしょうか。
    そのような不誠実な態度で様々な動物達を代弁していると本当に言えるのでしょうか。

  • #38

    奇譚 (日曜日, 03 1月 2016 09:11)

    こいつらさんざんこんなこと言ってるのに牛肉や豚肉、鶏肉とか食ってんだろ、笑えるな

  • #39

    議論が出来ることは素晴らしい (日曜日, 03 1月 2016 11:33)

    (1) 蛙は動物愛護法の動物に含まれます。ご確認下さい。
    (2) 蛙狩が悪習かどうかは一人一人が判断するものであり、諏訪大社が悪習でないと考えても周囲が同じように考えるとは限りません。
    (3) 御頭祭で鹿75頭を殺すのを止めたのは、民主主義の下で周囲から説得されたからですか? 蛙狩について話し合おうにも、諏訪大社はずっと(5~6年前から)動物愛護団体との対話から逃げ続けておられますよね?
    (4) 蛙を道端で轢き殺すのも、神社で串刺しにするのも問題なし、と考える人は殆どいないでしょう。
    (5) 肉を食べないのは、一人でも出来る動物愛護です。時間も労力もお金も特に必要ありません。諏訪大社の方々も、蛙の串刺しだけでなく肉食も止めませんか? 肉にされるために動物が殺されるところを動画ででも見て、よく考えて下さい。
    (6) 市役所や警察に相談して、念のため許可を取った上で活動している動物愛護団体と、法令を無視して勝手な振る舞いをしてきた諏訪大社。常識をわきまえず不誠実に行動しているのは諏訪大社のほうだと私は思いますよ。

  • #40

    村山孝作 (日曜日, 03 1月 2016 12:50)

    (1) 蛙は動物愛護法の動物に含まれまれないといった表現は不適切でした。訂正します。
    蛙は動物愛護法の保護の対象外です。動物愛護法上の「愛護動物」に両生類は含まれません。

    やはり、カエルを殺すことを法的に裁くことはできないのではないでしょうか。

    (2) 蛙狩が悪習かどうかは一人一人が判断するものでしょう。
    時代によって、文化や習慣によって「悪習」という言葉が指す範囲は変化してきました。異なる価値観をもつ人々に対して「悪習」が何であるか、一方的に決め付けて非難すること、これはすなわち人種差別に繋がります。

    その中で蛙狩が「悪習」であると主張しているはあなた方です。
    ではなぜ、人間によってさまざまな形で殺されていく動物たちの死の中で、蛙狩神事だけが、緊急に止めるべき「悪習」であるといえるのでしょうか。
    ご説明ください。

    また、カエルの身になって考えることを主張しているのもあなた方です。
    神事として数匹のカエルを殺すことが、「悪習」であって
    道で何万匹のカエルを轢き殺すことは、「悪習」ではないのでしょうか。
    ご説明ください。

    (3)宗教団体がどのように宗教的儀式を行うかは、その宗教団体内の自由です。私は諏訪大社の人間ではないので、鹿を殺すのを止めたことについてどのような経緯があったのか私は知りません。どのような形で対話が行われようとしたかについても知りませんが、諏訪大社が不誠実であることと、この抗議活動が不誠実であることは別の問題です。

    (4) 蛙を道端で轢き殺すのも、神社で串刺しにするのも問題があると考えるなら、どちらも問題にするべきでしょう。
    神社で串刺しにすることだけを問題にし、神社に抗議を行うことで
    何万匹の蛙を道端で轢き殺すことが止まるのでしょうか。環境破壊による何万匹の蛙の犠牲は止まるのでしょうか。
    この抗議活動はさまざまなカエルの死の問題を、不当に矮小化し、
    宗教団体への抗議そのものを目的にしているようにしか思えません。

    (5) 肉食も止めることを訴えるのは構いませんが、
    蛙狩神事を止めれば、肉食も止まりますか。
    私は、この問題と肉食は直接にはかかわらないと思います。

    (6)諏訪大社が法令を無視しているというならば、それは宗教団体の法令違反という問題です。諏訪大社が不誠実であることと、この抗議活動が不誠実であることには関係がありません。
    不誠実な団体に対しては、不誠実な抗議が許されるのでしょうか。

  • #41

    haako (日曜日, 03 1月 2016 13:04)

    「人間を生贄にすることを止めたのは、人権概念が普及したからです。」などと書かれた方がいますが、「人権」「自由」などという言葉も、明治の時代に日本で造られた和製漢語ですよ。それ以前はそのような概念がありませんでしたから。ですから、「人権概念が普及して人間を生贄にすることを止めた」といえばまるで江戸時代まで人間を生贄にしていたみたいな論理ですが。。本当ですか。

    古代からの人々が人間や動物を生贄にするのを止めたのはその時代の人々がそれが間違っていることを認識したからではありませんか。他の例を言えば、古代では豪族等の墓に人や動物を生き埋めにしましたが、後には代わりにはに輪の人形を一緒に埋めましたね。そのような昔でさえもです。
    ですから今の時代になぜこのような世界的にも名のある神社が敢えて生きた蛙を串刺しにして殺す必要があるのでしょうか。生きたまま適切な飼育箱に入れて奉納し後逃がすことはできないのですか。また蛙の人形で代用することはできないのでしょうか。

    この問題とは直接関係ありませんが、食肉にされる動物が飼育中どんな非道な扱いを受けどのように屠殺されるのかを一度よくに調べてみてください。現時点での隠されている実情を知れば普通の感情を持った人は肉が喉を通らなくなると思います。彼らも私達と同じように喜怒哀楽の感情があり、恐怖や痛みや苦しみを感じられるのですよ。動物によっては、豚のように人間の3歳児と同程の知能がある動物もいます。肉を食べなくても人間は十分幸福に健康に生活できます。そして環境にとっても健全です。(牛肉100gをつくるために小麦が1Kg、水が2トン必要だということです。牛の飲み水ではありません、念のため。小麦1Kgをつくるための水です。)

  • #42

    馬鹿馬鹿しい (日曜日, 03 1月 2016 13:32)

    反対したいなら代わりに自分が串刺しにされてきなよ…
    人間側の理屈で神様に妥協させようっての?

  • #43

    世界平和への道 (日曜日, 03 1月 2016 13:48)

    車で蛙を轢き殺すことを良いことだと考える人は皆無だと思います。
    多くの人は心を痛めながら、致し方ないスマナイと謝罪しながら、運転しておられるのではないでしょうか。

    動物と人間の共生をいかに図るかを考えることが、これから私たちが歩むべき道でしょう。
    動物の犠牲は余りにも多く、魔法のように一瞬で全てを変えることは無理だと思います。
    一つ一つ粘り強く変えていくしかないのです。

    諏訪大社は神道の神社であり、天皇や日本という国にも繋がります。
    無抵抗な蛙を生贄にすることを容認する国、国民は、世界から批判される軽蔑されるでしょう。
    だから、諏訪大社による生贄神事が強い抗議を受けているのだと私は思います。

    暴力ではなく生命の尊重による世界平和を実現するためにも、生贄神事は廃止しなくてはなりません。
    せめて、廃止に至るまで抗議の声を上げ続ける国民がいることを、世界に知っていてもらいたいです。

  • #44

    村山孝作 (日曜日, 03 1月 2016 13:59)

    謝罪の気持ちがあればいくらでもカエルを殺してもいいのでしょうか。
    蛙狩神事に関わる多くの人も心を痛めながら、致し方ないスマナイと謝罪しながら、神事を行っておられるのではないでしょうか。

    世界的にも名のある神社が敢えて生きた蛙を串刺しにし殺すということが問題の本質なのでしょうか。
    名も無きブルドーザーが敢えて生きた蛙を串刺しにし殺すということはどうでもいいのでしょうか。

    カエルの身になって考えることとは、そのようなことなのでしょうか。
    動物と人間の共生とは、何万匹のカエルを見殺しにすることなのでしょうか。
    神社で串刺しにすることだけを問題にすることで、いったい何が変わるというのでしょうか。

  • #45

    籤引きにすれば (日曜日, 03 1月 2016 14:06)

    どうしても生贄神事をしたいなら、したい人の中から籤引きで生贄を選ぶのが公平なやり方でしょう。

    自分は生贄になりたくないが、他人や物言えぬ動物を生贄にするのは構わない、などという身勝手きわまりない思考は、改めて下さい。

  • #46

    haako (日曜日, 03 1月 2016 14:10)

    「神社で串刺しにすることだけを問題に」しているわけではありません。
    このウェブページでは、そのことに焦点が当てられているということです。

  • #47

    方向性 (日曜日, 03 1月 2016 14:14)

    車やブルドーザーで犠牲になる動物の痛みを想われる方なら、神事で串刺しにされる蛙の痛みもお分かりになるだろうと思います。

    要は方向性なのですよね。
    殺しまくって構わないと考える方向。
    どうすれば一つの命でも守ることが出来るかと考える方向。

    私は後者の方向を向きたいです。

  • #48

    村山孝作 (日曜日, 03 1月 2016 14:17)

    国家神道は、明治維新から昭和20年の敗戦に至るまで約80年間、他の宗教を超越した国教として、その教義に合致しない信仰を排除・禁圧し、国民の生活や意識のすべてにわたって深い影響を及ぼしていました。
    天皇崇拝、教育勅語、靖国神社や海外の神社、宗教弾圧なども含めた広い範囲のものが国家神道として問題視されています。
    神道を無批判に天皇や国家に結びつけることのほうがよほど、世界から批判され軽蔑されるでしょう。

    また、生贄神事を廃止することはどうして、世界平和につながるのでしょうか。
    世界の人口のおよそ半数が貧困層で、一日の生活費がわずか2ドル以下で、医療も充分にない、という悲惨な状態で絶望の中で暮らしている状況が、生贄神事を廃止することで解決されるのでしょうか。
    具体的にご説明ください。

  • #49

    ポアもいいのでしょうか? (日曜日, 03 1月 2016 14:35)

    「蛙狩神事が神事であるのは、宗教団体が宗教的行為として行っているからです。それ以上に合理的な説明はできません。」とのコメントが気にかかります。

    ポアも蛙狩も宗教団体による宗教的行為ですね。
    対象が人間か蛙か、罰則があるかどうかの違いはありますが。

    法律で守られていなかったら、諏訪大社に抗議する者は生贄にされることでしょう。
    宗教団体による宗教的行為だということにすれば、命を奪っても良心が痛まないという人を、国はどう矯正すれば良いのか…。
    戦争には必要な感性だとは思いますが。

  • #50

    村山孝作 (日曜日, 03 1月 2016 14:49)

    ポアも蛙狩も宗教団体による宗教的行為ですが、
    対象が人間なら殺人罪として罪に問われます。
    対象が蛙なら動物愛護法の保護の対象外となり、法律上の罪には当たりません。

    宗教団体による宗教的行為だということにすれば、命を奪っても良心が痛まないという人が殺人を犯せば、国は刑務所に入れるでしょう。

  • #51

    蛙狩と世界平和 (日曜日, 03 1月 2016 14:53)

    世界平和のために必要なのは、生命を尊重したいという一人一人の思いです。
    それは難しいようで、容易いことかも知れません。
    インターネット社会、見ず知らずの者同士が、公開の場で、自由に意見を交わし、その全てを誰もが見て考え、自分の意見を述べることができる。
    どんなことも、人の心を動かすものです。

    蛙狩をめぐる諏訪大社と動物愛護団体との攻防も、ここでの議論も、一つ一つが世界平和に繋がっていると、私は信じています。

    諏訪大社は大きな問題提起をしてくれました。
    その意味で、私は諏訪大社にとても感謝しています。

  • #52

    村山孝作 (日曜日, 03 1月 2016 15:11)

    公開の場で、自由に意見を交わし、その全てを誰もが見て考え、自分の意見を述べることができるということは、それ自体特権的なことです。
    現在、学校に通えない子供は約5800万人
    読み書きができない大人は約7億8100万人います。
    そのような問題と、カエルを串刺しにするのは残虐だから止めようということがどうして、世界平和につながるのでしょうか。

    あらゆる問題を黙殺して、都合のいいときだけ世界平和を持ち出しているのに過ぎないのではないでしょうか。

    一つ一つが世界平和に繋がっていると、信じることは自由ですが、論理的に説得出来なければ、
    「五穀豊穣」や「国家安寧」に繋がっていると信じる人が、神事で蛙を串刺しにすることを止める事は出来ません。

    問題提起のためにはカエルの串刺しもやむなし、ということですか。

  • #53

    天皇制と世界平和 (日曜日, 03 1月 2016 15:18)

    天皇皇后両陛下にお目にかかったことはありませんが、テレビで拝見するお姿から、命の尊重や世界平和への思いを感じます。

    でも憲法上、天皇は日本国の象徴とされ、国民の意向によって色付けがされる無色透明な存在のようにされています。
    だからこそ国民一人一人は、何者にも流されることなく自由に、あらゆる問題について真実を見極め、熟慮し、話し合い、判断していかなくてはならないと思うのです。

    私は天皇皇后両陛下らに、真の世界平和を目指す日本国民、日本国の象徴になっていただきたいと望んでいます。
    真の世界平和は、暴力からは生まれません。
    生命の尊重こそが、真の世界平和をもたらします。
    それを諏訪大社に牽引していただけたら、どんなに心強いかと思っています。

  • #54

    頑張って観てみました・・・ (日曜日, 03 1月 2016 15:21)

    生贄とはこういうものらしいです。
    注意して閲覧との動画ですが。

    ディスカバリーチャンネル  生贄の歴史1
    https://www.youtube.com/watch?v=k8s4DJI17Pw
    2以下もあります
    https://www.youtube.com/watch?v=CKlmbdCnJ4s

    自分は生贄の歴史をあまりよく知らないけれど、観る限り、国内国外限らず忌むべき風習のように思えます。
    諏訪大社が代替手段を検討中という情報もありますが、そうならば賢明な選択だと思います。

  • #55

    村山孝作 (日曜日, 03 1月 2016 15:33)

    天皇陛下はあなたが望む前から、日本国の象徴です。

    日本国民を、真の世界平和を目指す国民とそうではない国民に分けるということは、
    政府の方針に順わない人間を「非国民」や「売国奴」扱いした、戦前の歴史を繰り返すことになるでしょう。

    真の世界平和とは、いったいどのような状態でしょうか。
    生命の尊重からどのような道筋で実現するものなのでしょうか。

    天皇皇后両陛下が止めろというから、蛙狩神事が問題なのでしょうか。
    天皇皇后両陛下が認めれば、蛙狩神事は問題でなくなるのでしょうか。
    そのような生命の尊重から真の世界平和は生まれるのでしょうか。

  • #56

    二つの道 (日曜日, 03 1月 2016 15:34)

    蛙くらい殺してもいい、という思考は、
    犬や猫くらい、胎児くらい、
    兵士くらい、障害者くらい、反逆者くらい、
    統制に従わない国民くらい、殺してもいい、
    という思考に結び付きます。

    一方、蛙を守ろうとする思いは、
    全ての生命の尊重に結び付きます。

    大きな二つの道。
    選ぶのは一人一人です。
    一人一人が、宗教からも何者からも解放され、ただ自分自身の良心に基づいて、道を選ぶのです。

  • #57

    村山孝作 (日曜日, 03 1月 2016 15:48)

    そのような考え方が成り立つのなら

    神社で殺されるカエルは数匹ですが、自然開発や環境破壊により殺されるカエルは何万匹もいるでしょう。

    さまざまな動物の死の中で、あえてそれらを黙殺し
    「神社で串刺しにする」ことに焦点を当てるということは、

    裏返せば、残虐な見世物でなければ、人間の生活の為に
    殺しまくって構わないと考える方向につながります。

    また、どうして道が二つしかないといえるのでしょうか。
    世の中の多くの人はカエルを殺すことと人を殺すことは違うと考えています。
    カエルを殺すことと犬や猫を殺すことは違うと考えています。
    その結果として、法律上の取り扱いが異なっているのです。

    全ての生命の尊重か、皆殺しか。その二つの道しかないのでしょうか。
    そのような考え方に縛られていることが、宗教からも何者からも解放されているのでしょうか。

  • #58

    こういう団体大嫌いだわー (日曜日, 03 1月 2016 15:57)

    残酷な殺し方が問題なの?安楽死なら文句言わないの?
    違うでしょ?どっちにしろ文句言うでしょ?
    ちいさなことから動物愛護に繋がるならまず近所の精肉店やスーパーでごねまくって逮捕されてきなよ、そうでなきゃおかしいでしょ?諏訪大社と違って毎日殺されてるもんね?
    あんたら日本の神事を潰したいだけでしょ?ほんとはカエルなんかどうでもいいんでしょ??
    カエル轢かれるってわかっていながら車使ってるメンバーが一人でもいるなら誰もあんたらの言うことなんかきかないよ??

  • #59

    真の世界平和とは。 (日曜日, 03 1月 2016 16:16)

    「真の世界平和とは、いったいどのような状態でしょうか。
    生命の尊重からどのような道筋で実現するものなのでしょうか。」

    例えば、貴方が何らかの事情で人を殺めてしまったとしても、私は貴方が死刑にされることがないよう、貴方を守りたいと思います。

    そして、なぜ貴方が人を殺めるに至った背景をよく伺い、根本的な原因を探り、本当の解決を目指したいと思います。

    どんな事情があろうと命を奪わないことが、世界平和の基礎になると私は考えています。

    諏訪大社の蛙狩も、深い事情があるのだろうと思います。
    その事情を明らかにしないと、蛙を代替品に置き換えることができないなら、事情の解明が急がれます。
    私は、国家形成の過程で、諏訪大社が手を汚す役目を引き受けたことが、蛙狩の由来だろうと考えています。
    太古の昔、世界各地で人間や動物が神への生贄にされてきたことでしょう。恐らく諏訪でも。でも、それだけではないような気がしています。
    明らかに出来ないが、忘れてはならない、忘れたくない事情が、諏訪にはあるのだろうと思います。
    それを蛙狩神事を通じて伝承しようとなさるのは、諏訪の方々の誠実さの表れなのかも知れません。

    でも、伝承すべきは、事情や背景であって、蛙を串刺しにすることではないはずです。
    諏訪大社は本当は何を伝承したいのか。真実を明らかにしていただきたいです。

    生命の尊重。真実。自由。
    世界平和の基礎となるのは、その三つではないでしょうか。

  • #60

    村山孝作 (日曜日, 03 1月 2016 16:48)

    カエルを神事として殺さないことが、どうして死刑制度の廃止に繋がるのでしょうか。
    カエルを殺す人は人間も殺すでしょうか。

    神社で殺される数匹のカエルを救うことが、道路で車に轢かれ死んで行く何万匹のカエルの死の根本的な原因を探り、本当の解決につながることなのでしょうか。

    どんな事情があろうと命を奪わないことの、命には、どこからどこまで含まれるのでしょうか
    植物にもキノコにも命はあります。魚や昆虫の命は、微生物や細菌の命は含まれるのでしょうか。

    どうして事情の解明が急がれるのでしょうか。
    宗教団体がどのように宗教的儀式を行うかは、その宗教団体内の自由です。宗教的儀式をどのように説明するかも、その宗教団体の自由です。
    また信仰を告白しない自由も保障されています。

    蛙狩神事を止めることから、
    世界平和に発展していく道筋も
    真の世界平和も具体性を欠いているとしか思えません。

  • #61

    haako (日曜日, 03 1月 2016 18:47)

    「世界平和への道」さんが、 (日曜日, 03 1月 2016 13:48)にすでに下のように説明しておられます。
    「車で蛙を轢き殺すことを良いことだと考える人は皆無だと思います。
    多くの人は心を痛めながら、致し方ないスマナイと謝罪しながら、運転しておられるのではないでしょうか。動物と人間の共生をいかに図るかを考えることが、これから私たちが歩むべき道でしょう。動物の犠牲は余りにも多く、魔法のように一瞬で全てを変えることは無理だと思います。
    一つ一つ粘り強く変えていくしかないのです。
    諏訪大社は神道の神社であり、天皇や日本という国にも繋がります。
    無抵抗な蛙を生贄にすることを容認する国、国民は、世界から批判される軽蔑されるでしょう。
    だから、諏訪大社による生贄神事が強い抗議を受けているのだと私は思います。
    暴力ではなく生命の尊重による世界平和を実現するためにも、生贄神事は廃止しなくてはなりません。せめて、廃止に至るまで抗議の声を上げ続ける国民がいることを、世界に知っていてもらいたいです。 」
    同じような極端論を繰り返さないで他の人達の書かれたこともよく読んでください。

  • #62

    村山孝作 (日曜日, 03 1月 2016 18:59)

    それについてよく読んだ上で、疑問に感じたこともすでにコメントしております。

    「謝罪の気持ちがあればいくらでもカエルを殺してもいいのでしょうか。
    蛙狩神事に関わる多くの人も心を痛めながら、致し方ないスマナイと謝罪しながら、神事を行っておられるのではないでしょうか。

    世界的にも名のある神社が敢えて生きた蛙を串刺しにし殺すということが問題の本質なのでしょうか。
    名も無きブルドーザーが敢えて生きた蛙を串刺しにし殺すということはどうでもいいのでしょうか。

    カエルの身になって考えることとは、そのようなことなのでしょうか。
    動物と人間の共生とは、何万匹のカエルを見殺しにすることなのでしょうか。
    神社で串刺しにすることだけを問題にすることで、いったい何が変わるというのでしょうか。

    国家神道は、明治維新から昭和20年の敗戦に至るまで約80年間、他の宗教を超越した国教として、その教義に合致しない信仰を排除・禁圧し、国民の生活や意識のすべてにわたって深い影響を及ぼしていました。
    天皇崇拝、教育勅語、靖国神社や海外の神社、宗教弾圧なども含めた広い範囲のものが国家神道として問題視されています。
    神道を無批判に天皇や国家に結びつけることのほうがよほど、世界から批判され軽蔑されるでしょう。

    また、生贄神事を廃止することはどうして、世界平和につながるのでしょうか。
    世界の人口のおよそ半数が貧困層で、一日の生活費がわずか2ドル以下で、医療も充分にない、という悲惨な状態で絶望の中で暮らしている状況が、生贄神事を廃止することで解決されるのでしょうか。
    具体的にご説明ください。」

    私はあなた方が、具体的な説明もされないまま、簡単に世界平和を口にすることに疑問に思っています。
    そのような疑問をコメントすることは、極端論だからよくないのですか。
    自由な議論、一つ一つが世界平和に繋がっているのではないでしょうか。

  • #63

    haako (日曜日, 03 1月 2016 19:19)

    繰り返しますが、諏訪大社の生贄神事だけを問題視しているのではありません。
    数々の問題が山積みになっています。すべてをすぐに解決することは不可能です。けれども、この世界がそこに住むものたちにとってよりよい場所にするために私達一人一人が今できることをすることは可能です。諏訪大社の生贄神事についての問題はその一つにすぎません。そしてこのページはそのことについてのディスカッションをしています。「生贄」という行為は、歴史的には昔存在したが今は時代錯誤の悪習であるということは殆どどこの国でも共通の一般常識です。ですから控えてくださいとお願いしています。

  • #64

    村山孝作 (日曜日, 03 1月 2016 19:43)

    どこの国でも共通の一般常識から外れているということは、信教の自由を乗り越えて、今すぐ止めるべき理由としてふさわしいでしょうか。
    日本語を話し着物を着ることは、どこの国でも共通の一般常識から外れていますが、
    今すぐ止めるべき時代錯誤の悪習でしょうか。

    諏訪大社の生贄神事だけを問題視しているのではありませんというのは、答えになっていません。
    数々の問題が山積みになっている中で、その一つにすぎない諏訪大社の生贄神事についての問題がどのように位置づけられ、
    真の世界平和に発展していくのか尋ねているのです。

    なぜ、儀式として殺される数匹のカエルを救うことで人々は一つ前に進めたことになるのでしょうか。

    この世界がそこに住むものたちにとってよりよい場所にするために私達一人一人が今できることが
    儀式として殺される数匹のカエルを救うことなのでしょうか。

    一日の生活費がわずか2ドル以下で、医療も充分にない、という悲惨な状態で絶望の中で暮らしている人々を目の前にして同じことが言えますか。

  • #65

    見学者 (日曜日, 03 1月 2016 20:54)

    元旦の当日、貴殿らの抗議活動を実際に見ていた者です。

    私は、貴殿らが実施する生贄の神事への抗議について、非難するつもりはありません。それはこのコメント欄でも再三述べられてきたように、民主主義国家である日本で国民が享受する表現の自由に基づく正当な行動です。また、弱い生き物の命を奪う儀式が現代においても存続を許されるのかという問題提起は実に重要であり、伝統と現代的な動物保護の概念をどう擦り合わせていくか、広範な議論を行う契機としての抗議は正しいことだと考えます。

    しかし、貴殿らは「神事を侮辱するつもりはない」と繰り返しながら、参加した弁護士の女性は住民が生活用水としても用いる川に入り込み、実力で神事を妨害しようと試み、また抗議する氏子を大声で非難し続けていました。また、それを抗議された別の女性は「我々にも温度差があり、彼女は熱心な人。彼女は蛙を助けたい一心でやっているから止められない」と言を左右に逃げ続けていました。実力で神事を妨害し、氏子らと議論するでもなく非難を続ける姿勢は、貴殿らのいう「神事の侮辱」そのものではないでしょうか。貴殿らの行動は氏子や大社側の尊厳を著しく傷付け、和解を難しくしただけだと思います。大社側も氏子も、今後決して話し合いに乗ることはないでしょうし、貴殿らが助けたいと願う蛙は、非公開の形で殺され続けていくでしょう。

    神社庁や大社側が議論を避け続けているのは承知していますが、それでもああいった過激な手法を取るべきではなく、根気強く協議を訴えていくべきでした。重要な問題提起であると感じていただけに、問題の解決をより難しくする強硬手段に貴殿らが訴えてしまったことは非常に残念です。それが、当日見学者としてあの場にいた人間が、強く感じた思いです。

  • #66

    匿名 (日曜日, 03 1月 2016 22:10)

    川に入るなどの行為を言及した方がいますが、一方で白い装束に身を包み、前の日あたりに何処からか持参しセッテイングした蛙を、わざとらしく探すふりをし子供には見せられないような殺し方をするほうが、見方によっては川を穢しているともいえましょう。

    神社=聖ということも単なる固定観念なのか期待なのかわからない。カトリック教会の「聖と俗」についての研究も盛んに行われてきましたが、神社が行う行為のすべてが聖であるのかどうかも考えてみる価値があると思います。古来から生贄という名の下にどれほど大勢の人間がむごい殺され方をしてきたのか、神社というものが、それに何らかの役割を演じたことはなかったのかなども。

    最後に、蛙狩神事の賛否などを考えることは、自分がどのような人間なのか、どういう思考をするのかということをあらためて知る大きなチャンスでもあろうかと思います。
    自分を含めひとりひとりが先入観を捨てて、再度この問題と向き合う必要があると感じます。

  • #67

    村山孝作 (日曜日, 03 1月 2016 22:27)

    蛙狩神事は
    白い装束に身を包むことが、問題なのでしょうか。
    前の日あたりに何処からか持参しセッテイングした蛙を、
    わざとらしく探すふりをすることが問題なのでしょうか。
    川を穢すから問題なのでしょうか。

    子供には見せられないような殺し方をするのが問題ならば
    子供には見せられるように殺せば問題ないのでしょうか。

    もし、真にカエルの身になって考えるならば、
    古代に人間がむごい殺され方をしたことと、
    現代のカエルを殺すことは何も関係があるように思えません。

  • #68

    大祝 (日曜日, 03 1月 2016 22:31)

    はっきりと言って、邪魔です。あなたがたは、豚も鳥も食べなくても野菜は食べますよね?穀物は?すべてのものに命があるものです。
    蛙は殺すなと言うなら、あなたがたは鳴き声すら出せない野菜を刈、包丁で切り刻んで食べているんじゃないですか?それとも、仙人様のように霞でも食べてるんでしょうかね?
    大体、環境破壊で消えていく命、貴重な生物の方が一年に2匹殺されるカエルより多いことは明らかに多いですよね?じゃあ、開発を進める大手ゼネコンにも文句を言うんですよね?言えるんじゃないんですか?それ位も出来ないのなら、はっきりと言って文句を言う資格はない。
    第一、そこで古くから行われている神事を無くすことは簡単には出来ないでしょうし、お諏訪様は怒らせてしまうと恐ろしい神様です。あなた方にも祟りますよ?いいんですね?命を落としても。

    それから、少しくらいは諏訪信仰をかじられておるようですが、高々10年程度の薄いものではないんですよ。諏訪信仰は資料も少なく、また様々な信仰が混ざり合ってます。生半可な知識では理解できませんよ。ま、

  • #69

    大祝 (日曜日, 03 1月 2016 22:46)

    まあ、弁護士さんは名前からして外国の方のようですから、理解できないとおもいますがね。御柱祭で人が死んでも神様への生け贄になったのだと考えられている位なので。勿論、警察の指示に従ってそれなりの対策はとっていますが。

    元々、神様は時には生け贄を求めるものだったのですよ。諏訪信仰の中の御頭祭という祭の様子は、神長官守矢資料館で観られたようですが、意味は理解できましたか?御頭祭とは、春になり冬籠もりを終えた神様が再び地上に出て来られることを祝い、神と人との神人和合の宴を催すのが御頭祭です。そのために、山川から生き物を取り神前に捧げるのですよ。神事の際の献餞をご覧になられたことがないのでしょうか?

    まず、この愚劣極まりないこの行動を即辞めて下さい。はっきりといって、迷惑です。

  • #70

    訪問者 (月曜日, 04 1月 2016 00:45)

     見学者さん、客観的なご意見をありがとうございます。自分はその場にいませんでしたが、そのような結果になったようで残念です。直接の行動抗議よりも静かに反対し署名運動をしたほうがよかったのかもしれませんね。氏子の人たちにも立場があるでしょうし。
     しかしながら、殺されかけているものを目の当たりにして声をあげるには勇気のいることだったと思います。しかも特別権威のある相手に対してですからなかなかできることではないとおもいます。自分もこれはおかしい許されないと心に思っても見て見ぬふりをしてしまうでしょう。
     さて、素朴な質問ですが、参拝客の中には家族連れもいたのでしょうか。誰しも子供達には見せたくない光景でしょうが、もし一部始終を見てしまったら一体どう説明するのでしょうか。後日小学生が生贄ごっこでもして蛙を串刺しにしていたりしたら学校でも大問題になりませんか。残虐な遊びが徐々にエスカレートして大変なことになる可能性もないとは言えません。しかし非公開になるというのも不透明で恐ろしいです。また見えなければよいというものでもありません。
     また参観者の中に外国からの観光客などもいたのでしょうか。動画でも撮られてインターネットで世界中に日本の神社でこんなことをしているなどと流されたら日本人として本当に恥ずかしいです。
     

  • #71

    村山孝作 (月曜日, 04 1月 2016 01:08)

    子供達には見せたくないのならば、子供たちに見せなければよいだけのことです。
    子供達に悪影響だということが問題の本質であるなら、当然、見せなければよいということで解決されるでしょう。

    また、日本人として恥ずかしいから、問題になるのでしょうか。
    車で蛙を轢き殺すことは日本人として恥ずかしくないから、許されるのでしょうか。

    もし、真にカエルの身になって考えるならば、
    日本人として恥ずかしいかどうかで、保護されるか見殺しにされるか決まるなんて
    たまったもんじゃないと思います。

  • #72

    通りすがり (月曜日, 04 1月 2016 15:10)

    もっと他にやることはないのですか?
    自分の価値観を強制する、ただただ気持ち悪い団体ですね。

  • #73

    蛙の神は怖くないのか (月曜日, 04 1月 2016 15:18)

    「お諏訪様は怒らせてしまうと恐ろしい神様です。あなた方にも祟りますよ?いいんですね?命を落としても。」

    凄いな。そんな言葉で諏訪住民は脅されて、声を上げられないようにされてきたんだろうな。気の毒だ。

    ところで諏訪大社の輩は蛙の神のことは怖くないんだな。
    蛙は無抵抗な生き物だからか?
    蛙は威嚇もしないし、されるがままだもんな。
    神になっても祟りそうな感じがしないよな。
    蛙が一番気の毒だ。

  • #74

    村山孝作 (月曜日, 04 1月 2016 17:25)

    祟りや呪いが起きるかどうかといったことが、この問題の本質なのでしょうか。
    祟りや呪いを信じるか信じないかは、その人の自由でしょう。
    蛙の神がどういったものであるかも、その人の自由でしょう。

    気の毒なカエルたちは人間の自然開発によって何万匹も殺されています。
    カエルの死を時代錯誤の悪習という問題に置き換えて提起することが、
    少しでも気の毒なカエルたちの犠牲を減らしていく努力なのでしょうか。

    神社で殺される数匹のカエルを救うことが、道路で車に轢かれ死んで行く何万匹の気の毒なカエルの死の根本的な原因を探り、本当の解決につながることなのでしょうか。

  • #75

    村山さんへ (月曜日, 04 1月 2016 18:48)

    討論には陥りやすい間違えがあります。
    村山さんは「論点のすり替え」に陥っていらっしゃいます。

    論点のすり替え(英: Ignoratio elenchi)
    非形式的誤謬の一種であり、それ自体は妥当な論証だが、本来の問題への答えにはなっていない論証を指す。
    つまり、最初の問題」に対して新しい問題を出してしまうことです。問題のすり替えとか話題のすり替えと言った方が分かりやすいかもしれません。似て異なる論点へ誘導していらっしゃいます。

    ここでは諏訪大社での蛙狩神事という生贄が主題なのに対し、路上死、あるいは開発によって死ぬ蛙という全く別の話を持ち出していらっしゃいます。神社に抗議した人達は、蛙でなくても、たとえばいけにえにされるのが「蛇」でも「ウサギ」でも痛みを強く感じるとされる生き物を生贄にすることに異論を唱えていらっしゃるのです。刺殺されるのがウサギなら、村山さんは「毛皮にされるウサギはどうするんだ?」とおっしゃるでしょうね。

    この方法では論点が合わず議論にはならないでしょう。

    これでは議論になりません。

    たとえば、こどもたちの孤食の問題を議論しているのに、発展途上国では学校に行けない子どもや病気で早死にする乳児もいるのをどうするんだ?というような。

  • #76

    村山孝作 (月曜日, 04 1月 2016 19:41)

    おっしゃることは、よくわかりました。
    私は「論点のすり替え」に陥っていたのですね。

    諏訪大社での蛙狩神事に対し、路上死、あるいは開発によって死ぬ蛙というのは、全く別の話なのですね。

    この問題は「痛みを強く感じるとされる生き物を生贄にすること」なのですね。

    この問題は「痛みを強く感じるとされる生き物が殺されること」とは全く関係のないことなのですね。それどころか、論点のすり替えにあたるのですね。

    その上で私がお尋ねしたいのは
    「痛みを強く感じるとされる生き物を生贄にすること」がなぜいけないのかという理由です。
    ご説明ください。

  • #77

    村山さんへ (月曜日, 04 1月 2016 20:32)

    特に日本人が陥りやすい議論の方法に「蒸し返し」と「堂々めぐり」というのがあるそうです。

    「痛みを強く感じるとされる生き物を生贄にすること」がなぜいけないのかという理由を質問していらっしゃいますが、すでに複数の団体さんが理由を記しています。それを前提に議論がスタートしました。その出発点に戻ろうとするのは、まさに「蒸し返し」「堂々めぐり」ではないでしょうか。

    こちらからも質問していいですか?
    彼らはなぜそれがいけないと言っていますか?
    簡単でいいので、まとめてみてくださいませんか?

    あ!この方法は「逆質問」という良くない方法かも!

  • #78

    村山孝作 (月曜日, 04 1月 2016 21:26)

    議論の方法に、大変にお詳しいようですから、
    わざわざこんなことを書くのは大変に失礼なことかもしれませんが、
    「~していないこと」、「~が存在しないこと」の証明は、そもそも不可能に近いものです。

    説明があったことは、証明できますが、
    説明がなかったことは、証明できません。

    「悪魔の証明」とよばれるものです。

    すでに複数の団体さんが理由を記しています。といった主張をされるなら、
    どの団体が、どのように主張しているか、具体的に主張されればよいのです。

    それを前提に議論がスタートしました。とは、具体的にどういった前提でしょうか。
    私はこのページを見て疑問を感じたことをコメントすることから議論を始めました。
    それ以前の前提を知らない人は議論に参加してはいけないのでしょうか。

    あなたがおっしゃる「彼ら」が、具体的に誰のことを指すのかはよく分かりませんが
    ここのコメント欄での議論について指しているのであれば

    「痛みを強く感じるとされる生き物を生贄にすること」がなぜいけないのかということを、「痛みを強く感じるとされる生き物が殺されること」と全く切り離した説明をされる方は全くいらっしゃいませんでした。

    その上で私がお尋ねしたいのは
    「痛みを強く感じるとされる生き物を生贄にすること」がなぜいけないのかという理由です。
    ご説明ください。

  • #79

    村山さんへ (月曜日, 04 1月 2016 21:33)

    これほど熱心に議論に参加なさっているからには、少なくとも相手方の主張位は熟知しておくべきでしょう。
    お時間があるなら、検索をかければすぐに出てくるはずです。
    情報収集に手間を惜しんではなりません。

  • #80

    村山孝作 (月曜日, 04 1月 2016 21:44)

    その相手方の主張位を熟知するために、こちらのページにコメントしているのですが。
    議論を通して相手方の意見を知ることは、情報収集にはならないのですか。

    こちらのページや、こちらの団体の主張に対しての疑問は
    こちらのページにコメントしてはいけないのですか。

  • #81

    村山さんへ (月曜日, 04 1月 2016 22:09)

    相手方の主張熟知するために、こちらのページにコメントしているとのことですが、ここに書き込んでいる人に当事者さんは少ないと思いますよ。何事もご自分で原史料に当たるべきです。
    全国動物ネットワークさん、アニマルライツセンターさんが直接要望文を出していらっしゃいます。
    またそれぞれのホームページをよく点検なされば、村山さんの「なぜなぜ病」が少しは快癒するかもしれません。それぞれの団体さんの主張を、ほかの人を介してまとめてもらうより、何事も原資料に「ご自分で」当たることが、正確な議論への第一歩だと思います。
    前提を知らなければ議論に参加してはいけないのかということに対しては、いけないと言わざるを得ません。

    単に感想を述べているコメントと違い、村山さんのコメントは相手に質問を投げかけるタイプのものです。質問する以上は、質問者としての準備ガ必要です。予習しないで授業に出る生徒のようなものです。

  • #82

    J-CAST (月曜日, 04 1月 2016)

    J-CASTというニュースサイトで昨年1月、蛙狩のことが取り上げられました。
    そのコメント欄には多くの方が投稿され、歴史的な観点や哲学的な観点からも考察が加えられていて、非常に勉強になります。
    コメント投稿はまだ続いており、現在のコメントは5366に及びます。
    村山さんの疑問点も解消していただけると思いますので、ご一読なさるとよいと思います。

  • #83

    村山孝作 (月曜日, 04 1月 2016 23:14)

    ここは、要望文を出した全国動物ネットワークのページですが。
    私は、他の団体の主張を、問題にしたいわけではありません。
    それでも、他の団体の主張を問題にしたいのであれば、具体的にここに提示してください。

    インターネットでは、見ず知らずの者同士が、公開の場で、自由に意見を交わし、その全てを誰もが見て考え、自分の意見を述べることができます。

    そのような場では、世間一般の人々は、予習しないで授業に出る生徒同然です。

    しかし、予習しないで授業に出る生徒を排除する権利は、教師にしかありません。
    なぜなら、教師にもまた、生徒に誠実に授業を行う義務があるからです。

    民主主義社会では自由な議論が行われている場から、どういった場合でも人々を排除するべきではありません。
    議論の場で、必要なのは排除ではなく、
    このような前提があり、こういった経緯があるのですよ、と論理的に説得することでしょう。

    J-CASTのコメント欄に素晴らしい意見があるのなら、引用してくればいいじゃないですか。

    そういった論理的な説得が行われていないので、私は質問を繰り返しているのです。

  • #84

    村山孝作 (月曜日, 04 1月 2016 23:15)

    ここに書き込んでいる人に当事者さんは少ないかどうか、
    匿名のコメント欄なのだから、そんなことは分かりませんが。
    それともあなたが、この抗議活動の当事者であるのならば、話は別ですが。

  • #85

    村山氏の熱心さは何処に向かっているのか (火曜日, 05 1月 2016 00:39)

    蛙狩神事は「殺す」ことに意味があるから、代替品を使うことも、カエルを傷付けずに解放することも受け入れられない、というのが氏子らの考えだと理解した。
    村山氏の言う通り、この世は殺戮だらけだが、どうすれば殺戮を減らせるか無くせるかを、皆が考えていかないといけないと思うんだが、どうだろう。
    仮に神職から、一匹のカエルを殺せば地球が救われると言われたとして、じゃあ殺そうと思うか普通。
    その神職を本気で心配するんじゃなかろうか。

    答えにくい質問かも知れないが、村山氏に尋ねたい。
    君は何がなんでもカエルを殺したいのか?

  • #86

    参考になるだろうか (火曜日, 05 1月 2016 00:54)

    はちま寄稿、というブログに寄せられたコメント。
    ☆☆☆
    大社は団体が怖かったんだろ。
    自分は違法、相手は合法で、やり合えば負けるからな。
    団体から逃げてカエルをブスリか。
    弱腰で気色の悪い神社だな。
    何が軍神だよ。
    カエルを殺して威張ってんじゃねーよ!
    神道も地に落ちたな。
    ☆☆☆

    蛙狩を続けていいかどうかは、たぶん理屈じゃないんだよ。

  • #87

    余計なお世話かも知れないが… (火曜日, 05 1月 2016 09:31)

    村山君は諏訪大社を背負って、ここに書き込んでおられるのだろうか。
    命を大切にという動物愛護団体のメッセージを打ち破るのは、簡単じゃないぞ。
    歴史ある諏訪大社の神事を廃止に追い込むのも簡単ではないだろうが、人類は命の尊重が宗教を超えた普遍的価値だと気付き始めている。

    肉食し、毛皮や羽毛を身に付け、動物実験を経て開発された医薬品を用い、車で動物を轢き殺し、邪魔になったペットは殺処分しているのが今の我々の社会だ。
    どれほど動物に感謝しようが謝罪しようが、命の軽視だ。
    諏訪大社も村山君も、そういう社会の現状を以て生け贄神事を正当化しようとしているようだが、「赤信号皆で渡れば怖くない」以上の説得は不可能だよ。
    違法行為を伝承してきたことが、違法行為を正当化する理由になり得ないのと同じ。

    弱いものや少数者を犠牲にして、強いものや多数者を守ることは恥ずべきことだという考えは、憲法をはじめ法令に表れているけれど、現実の社会にも見えてくるようになった。
    村山君には見えるかな?
    そういう倫理観はね、一度気付くと消えることはなく、広く深くなり、周囲にも影響を与える。不思議なことに。
    だから、そう遠くない将来、命を犠牲にするのではなく守ろうという社会に変わっていくだろう。

    村山君が最後まで、命を軽視し利用する方向を向いているのは自由だ。
    そういう村山君のことも、命を尊重する社会は暖かく包み込むはずだから、安心して思いをぶつけたらいい。
    ただ、どうか諏訪大社からは自由でいてくれ。
    諏訪大社の神々は殺戮など望んでおられないし、人々の心は移り変わる。
    村山君が、実体のないものに縛られることのないよう、祈っているよ。

  • #88

    村山孝作 (火曜日, 05 1月 2016 14:34)

    そのためにはまず、殺戮とは何であるのか考える必要がありますね。

    人間が人間に行う殺戮もあれば、人間が動物に行う殺戮もあります。
    動物が人間に行う殺戮もあれば、動物が動物に行う殺戮もあります。

    人間が殺戮されることと、蛙が殺戮されることを同一視する
    単純な見方しかできない人々に、人間が殺戮と対峙するために有効なことは何1つできないと思います。

    仮に神職から、一匹のカエルを殺せば地球が救われると言われたとしても、
    一匹のカエルを救えば地球が救われると言われたとしても、
    どちらにせよ論理的ではないと思いますが。

    私は何がなんでもカエルを殺したい訳ではありません。
    何がなんでも蛙狩神事を止めさせたいという人が、
    どのように緻密に論理を組み立て、蛙狩神事を問題として位置づけているのか知りたいです。

  • #89

    村山孝作 (火曜日, 05 1月 2016 14:34)

    蛙狩神事が法律上の罪に当たるのなら、警察に通報されればいいのではないでしょうか。
    それでも警察が動かないのなら、それは、警察に問題があります。

    蛙狩を続けていいかどうかが、理屈ではないのなら、議論を通して説得することは不可能です。

  • #90

    村山孝作 (火曜日, 05 1月 2016 14:42)

    私は諏訪大社を背負って、ここに書き込んでいるつもりはありません。
    命を大切にということを、口で言うのは簡単ですが
    それがどういった形で実現されるかが、非常に重要です。

    私は現在の世界の状況からみて
    人類は「人間の」命の尊重が宗教を超えた普遍的価値だと気付き始めている。と言うことは言えるかもしれませんが
    まだまだ、人類は「蛙の」命の尊重が宗教を超えた普遍的価値だと気付き始めている。と言うことは言えないと思います。

    「蛙の」命の尊重が「宗教」を超えた普遍的価値であるなら、当然、
    「蛙の」命の尊重も「経済」を超えた普遍的価値でもあるはずでしょう。

    しかし、諏訪大社での蛙狩神事という生贄に対し、路上死、あるいは開発によって死ぬ蛙は、全く別の話であって
    「論点のすり替え」である、というような論理は、大変恐ろしい結論に帰結します。

    生け贄神事は、「諏訪大社が宗教的行事として行うこと」が問題であり、
    生け贄神事を、「営利企業が事業の一環として行うこと」を問題として問えなくなるからです。

    この生け贄神事を、宗教的行事の問題として問うことは、かえって、肉食し、毛皮や羽毛を身に付け、動物実験を経て開発された医薬品を用い、車で動物を轢き殺し、邪魔になったペットは殺処分している今の我々の社会を肯定することに繋がります。

    少数派の「宗教」のためには許されないことだが
    多数派の「経済」のためには仕方がないと言った倫理観はまさに、
    「赤信号皆で渡れば怖くない」といった倫理観でしょう。

    そういった倫理観が、一度気付くと消えることはなく、広く深くなり、周囲にも影響を与えることは
    命を犠牲にするのではなく守ろうという社会に変わっていくことでしょうか。

    憲法をはじめ法令に表れている、人権概念は「人間」を社会の主体として人為的に定めた制度です。
    また、ここへ来てヘイトスピーチや、テロリズムなど人権概念を揺るがすような問題も、現実の社会に見えてくるようになってきた、と私は考えます。

    動物愛護から世界平和までを楽天的にひとつながりに考えることは構いませんが
    問題なのは、論理的に緻密でなければ、それが一種の無自覚な権力になるということです。

  • #91

    互いに勉強しよう (水曜日, 06 1月 2016 00:50)

    村山君の話は、J-CASTで1年間にわたって議論されてきたことだよ。
    まず、これまでの皆の議論を読んでから、疑問をぶつけたほうがいい。
    読んでみたら分かると思うが、皆それぞれ自分で勉強して、書き込んでいる。
    質問ばかりぶつけて「俺に理解させられるものならさせてみろ!」という姿勢では、どのような場面であっても煙たがられると思うよ。
    深呼吸して、ゆったりした気持ちで、一つ一つのコメントをよく読んで考えてみることが、これから君が生きていく上でもきっとプラスになる。
    互いに相手が何を考えているか知る努力をすることは、話し合いの中で不可欠だからね。

    ただ、蛙狩のことは、緻密に論理を組み立てて善悪を決める問題ではないように思う。
    実際の場面を映像ででも見た人々が、蛙狩が立派な神事で是非伝承すべきだと感じるかどうか、ということじゃないかな。
    場合によっては、蛙狩を契機に国民による合意形成が進んで、法令が変わるかも知れないね。

    仮に神社は本来、生贄を捧げる場所だったとしても、現代の殆どの国民は生贄を望んでいないんだよ。
    そんな中で、諏訪大社はなお生贄を続けるかどうか。悩みどころだね。

  • #92

    目標 (水曜日, 06 1月 2016 01:37)

    村山君の人生の目標を聞いてみたいなあ。
    生まれてきて、この命をどう使いたいか。

    私は、偽善だと言われるだろうが、世界中の人々や動物たちが幸せでないと、何だか辛くていたたまれないんだ。
    私自身は微力でもどかしいのだけど、皆の幸せのために尽力している人を沢山知っている。
    一人また一人と、そういう人と出会えることは、大きな励ましになっている。

    村山君とも、そういう繋がりの中での出会いなのかも知れない。
    だって村山君は、この世の悲惨さに目を向けている人だから。
    村山君の能力や粘り強さを、村山君の納得のいく形で生かしてほしいと思う。

  • #93

    がんばって下さい! (水曜日, 06 1月 2016 11:36)

    この運動の一番すごいところは・・日本で一番?古くて特別伝統と権威ある諏訪大社に、たった数人で挑んだことだと思います。諏訪大社が神事を非公開にしたのは敗けたからです。権威がた落ちです。
    私も神様はいけにえなんか望んでないと思います。怨念の神様とかいうけど、無実の人が殺されたってことでしょう。もし神様がいけにえを望むとしたら、いけにえにしたいと叫んでる人間、全員だと思います。
    かえるを串刺しにしていることは地元でも知られていないので、知らせるほうがいいです。元旦にアピールするなら、午後のほうが人が多いと思います。仮装用の衣装、神主のも巫女のも何千円で売ってます。神主や巫女の格好して、縫いぐるみのかえるを串刺しにすれば、みんなゲー・・ってなると思います。
    きちんと手続きを踏んで許可を取って、警察にも守られて・・逆に諏訪大社の違法行為を問う・・皆さんは、神社にだまされて戦死した人たちに守られているのかなと思います。
    今年も去年も川で録画した人がいると思います。私も探してみて貸してもらえたら送りますね!がんばって下さい!

  • #94

    論破できるかな (水曜日, 06 1月 2016 13:06)

    村山氏は生贄を求める神を信じておられるのかな。
    もし信じておられるなら、そのような神の存在について緻密に論理を組み立てて、無神論者や命の尊重を説く宗教の信者を説得、論破してごらん。

    なぜ命の尊重が普遍的な価値か。なぜ世界平和に不可欠なのか。
    村山氏を論破できるとは思わないが、考えてみてもらいたい。
    君は、自分や子供の命を尊重されたいか蹂躙されたいか、どっちだろう。
    尊重されたら何を思い、蹂躙されたら何を思うだろう。
    命の尊重と蹂躙、どちらが平和に繋がるだろう。
    親が子供に「神社の神事なら、蛙を串刺しにしても、鹿の首を切ってもいいんだよ」と教えるのと「神社のように、生き物には優しくするんだよ」と教えるのと、どちらが平和に向かう教育だろう。
    ここで答えてくれなくていい。
    時間をかけて静かに考えてみてほしい。

  • #95

    わあいうさんくさい団体だこと! (水曜日, 06 1月 2016 23:26)

    命を扱う問題って反対しにくいし支持集め易くてお金になるから反捕鯨団体とかのああいう匂いを感じる
    かわいそうだねー野蛮だねー神社に文句言ってやめさせようねー反対するやつは先進国に有るまじき野蛮人だよー平和のためだから伝統とか関係ないよ潰しちゃおうねー

    それで何が残るのか、笑うのは誰なのか
    ちょっと考えてみよう

  • #96

    戦中も蛙狩はあったんか? (木曜日, 07 1月 2016 20:52)

    胡散臭いのはカエル串刺し大社のほうやろ。
    金のために動物やら氏子の命を踏みにじっとる神社が、何言うてまんねん。笑てしもたで。

    戦中に諏訪で大地震があったんやて?1944年12月7日。
    なんでや?蛙狩が中断されとったんか?
    祈願の効果なんかないやないか。

    誰かが言うとったけど、どうしても生贄をやりたい人間が「諏訪のために自分が生贄になりまする!」言うて名乗り出たらどないや?
    ほんだら諏訪大社で祀ってもらえるかも知れんで。
    蛇の神さんやったら、カエルでのうても、死んだばっかりの人間の霊魂も召し上がりはるんちゃうか?

    ていうのは冗談やけど、諏訪で生贄が始まった頃は、それしか思い付かんかったんやろうな。痛ましいな。
    諏訪大社は、ええかげん生贄はやめて、今までに生贄にされた動物や人間を弔わんとな。怨霊や言うて結界で封じ込めるのは違うんとちゃうかなあと思うで。

  • #97

    殺戮を奨励する諏訪大社 (金曜日, 08 1月 2016 07:50)

    蛙を串刺しにする神官たちは、
    生贄の動画を見て、自分たちがやっていることの意味を考えるべきだ。

    動物愛護団体の抗議が行き過ぎたパフォーマンスだと非難する者がいるが、
    「神官の着ぐるみ」で蛙を殺そうとする人間から
    「蛙の着ぐるみ」で蛙を守ろうとする人間を、
    私は支持する。

    太古の昔から現在も、殺戮を奨励してきた諏訪大社、
    どれほど勇壮かと思えば、公安委員会の許可を得たという僅か数人の抗議者に、尻尾を巻いて逃げ隠れ、コソコソと蛙を殺す、弱腰で卑怯な諏訪大社に、
    参拝客はいったい何を求めているのか・・・

    蛙狩の件を踏まえて御柱の扱いを見ていると、
    御柱祭の迫力は、殺すことに向かっているような印象を受ける。
    串刺しにされる蛙も、御柱にされる大木も、祀られている神々も、痛々しい。

  • #98

    ★まともな宗教か見分ける要素 (金曜日, 08 1月 2016 11:27)

    いろいろ読んで思いました。
    諏訪大社は災害や不幸を利用して脅しているのかな、、と。

    東日本大震災は予言した。
    常総の水害は蛙狩神事に抗議した団体のせい。
    生贄を捧げたら神の怒りを鎮められる。
    自分たちは神をコントロールできる。
    自分たちに逆らう者は呪われ神の罰が下るぞ。

    驚くほどの不遜です。

    一般に、まともな宗教かどうか見分ける要素は、
    ★バチが当たるなどと言って脅すかどうか
    ★お金や奉仕を要求するかどうか
    の二つだと言われています。

    他の神社は知りませんが、
    諏訪大社は二つとも当てはまりそうですね。

  • #99

    大祝 (水曜日, 20 1月 2016 17:41)

    論破できるかなさん
    「神社の神事なら、蛙を串刺しにしても、鹿の首を切ってもいいんだよ」と言われていますが、それは
    完全に上辺だけで物事を判断してますね。
    「なぜ神事はこんなことをするのだろう?」と考えられたことはありませんか?意味もなくやっている神事はありません。必ず、奥深く意味があるのですよ。蛙狩りも、諏訪大明神が蛇神だと信じられているから蛙を捧げる。鹿の生首を供えるのは、御頭祭で神と人との饗宴をするため。
    それに、諏訪信仰は現在の日本で多く見られる農耕祭祀に縄文時代以前からの狩猟祭祀も加わった非常に複雑な信仰です。
    一目見た程度や、ちょっと資料をかじった程度ではすべてを理解するのは難しいです。

    それと、自分や子供の命を尊重されたいか蹂躙されたいか、どっちだろうと言うのはこの地球上の殆どの人が願っているでしょう。しかし、悲しいことに争いとはごく一部の戦争を望む者たちによって引き起こされてしまうのです。無論、世界平和は多くの人が望むことですが、この地上から争いを望む人間が居なくならない限り戦争は絶えないでしょう。
    今現在、たくさんの人を虐殺し続けているISの人たちに世界平和を訴えたところで聞き入れられないのと同じことです。
    自分たちの神が正しいから、異教徒どもは皆殺しにしてしまえと言う恐ろしい考えを持った人たちですからね。

  • #100

    大祝 (木曜日, 21 1月 2016 15:40)

    殺戮を奨励する諏訪大社さん
    どこがどうなれば、「諏訪大社が殺戮を支持してきた」と言うことになるのでしょうか?全く意味が分かりません。妄言だけで諏訪大社を汚すのは止めていただきたい。
    御柱が殺す方向に向かっていると言われていますが、きちんと安全対策はしていますからね。前回の御柱で死んだ方は、注意を受けても無視して安全装置を取り付けていなかったというだけですから。それに、御柱の意味合いは殺すことなどではなく、伊勢神宮の式年造営と同じで宮を建て替えるのを簡略化したことだといわれています。神事の意味もご存じないようですね。

    ★まともな宗教か見分ける要素さん
    災害や不幸を利用して脅している証拠はありますか?是非、提示をお願いいたします。もしないのだとしたら、それはバ韓国が慰安婦を強制労働だったと捏造しているのと同じですよ。
    諏訪大社は脅しても居ないですし、守ってやるから金をよこせなどと言うやくざまがいのこともしていません。お祭りにお金を出すのは、氏子として至極当然の習慣です。お祭りを執り行うのには莫大なお金が掛かりますが、それでも出すのは産土様としてお守りいただいているという感謝からです。お祓いなどのお礼として出すお金も同じですよ。

  • #101

    のび (土曜日, 23 1月 2016 09:29)

    カエルの命をすべての弱者の代表みたいに扱うから支持が得られない
    命の価値は時代によって変わるからこの神事を終わらせたいなら世論を動かさなきゃいけない
    年に一回のカエル一匹の死>数千年続く狩猟の神への生贄の伝統儀式 ってなるようにね

    カエルの死に抗議した後チキンカレー食ってる人たちが言っても説得力無いけどね
    みんなのおなかをいっぱいにするために何匹鶏殺したの?
    年単位にしたら尋常じゃない数殺してるよね?
    まあ家畜の命はカエル以下っていう理屈なら通るけどね
    でも動物愛護してるんでしょ?

  • #102

    匿名希望 (日曜日, 24 1月 2016 18:47)

    >まあ家畜の命はカエル以下っていう理屈なら通るけどね

    愛玩動物には愛玩動物の、畜産動物には畜産動物の、尊重されるべき、また目指されるべき福祉があります。

    しかし、生贄動物というのは、その存在自体が世界からも疑問視されている。

    氏子でも、蛙のくし刺しに眉をひそめている人も結構いると聞いた。
    嫌な風習だ。

    神事の意味? 諏訪大社も本当にわかってやっているのかな。
    神事が大事なら、なぜ、鹿の生贄神事はやめたんだろう?都合が悪くなるとちゃんとやめてきているのさ。
    おかしなことばかりだ

  • #103

    大祝 (月曜日, 25 1月 2016 02:53)

    匿名希望さん
    神事の意味を分かってやっている方は必ずいらっしゃいますよ。御頭祭が変えられたのは明治の廃仏棄釈からです。元々は御頭祭の前には冬の間、竪穴式住居のような中で神官と蛇体が入り冬篭りをして管粥などの神事を行い、春を迎えて冬篭りを終えるいというプロセスがありました。御頭祭はその冬篭りを終えた神と人とで行う饗宴であったんです。
    ところが明治の廃仏毀釈で神道的でないものは全てが排除されてしまったため、冬篭りが無くなってしまい狩猟祭祀と農耕祭祀の両面を持っていた御頭祭が残り、狩猟祭祀の面を薄めて農耕祭祀として今も伝えているのです。いけにえが都合が悪くなったわけではありません。そうやってにわかが神事をたやすく判断して批判するのは誠に持って不愉快ですね。

  • #104

    匿名希望再び (火曜日, 26 1月 2016 17:42)

    大祝さん、いろいろと教えていただいて感謝します。そういう意味があるのですか。でもそれはそれで文化史のひとコマとして、史書に書き残しておけばよいだけのこと。実際に行動で残す必要があるものとないものがある。

    大祝さんが結局は廃仏毀釈とか狩猟文化から農耕文化へのシフトとか説明してくれたけれど、つまりは歴史の波にさらされて変化してきたということになるのではないか。

    蛙狩りという風習も、歴史的に曲がり角に来ているということだと思うが。

    明治の廃仏毀釈ならぬ、平成という時代の洗礼を受ける時なのでは?

  • #105

    大祝 (木曜日, 28 1月 2016 08:48)

    匿名希望さん
    確かに、廃仏棄釈というものは時代の流れではありましたが、あれはこんな抗議などというものではなくお国の政策という拘束力を持ってして行われたものですから、l今回の問題とは大きさがが違います。

    更に、この団体がただ単に抗議するだけならまだしも地元の方、氏子さんのタブーに触れるような愚かなまねをしているのが何より問題です。神域を穢す事を神事に携わる者は何よりも嫌います。言論の自由もあれば信仰の自由もある時代ですし、そうそう変える事は難しいでしょうね。

  • #106

    匿名希望再び (木曜日, 28 1月 2016 09:52)

    大祝さん、お国の政策という拘束力がなくても、鹿の首を切り落としたり、兎を脳天まで串刺しにするような神事は終わっていたと思います。国の制約もなくなった今、その神事がそれほど意義深いものでなくてはならないものならば、いつでも復活できたはずだから。

    「氏子さんのタブー」と「氏子さん」とひとまとめに表現されましたが、氏子さん一人一人思うところは様々。 大祝さんがひとまとめに「総意」であるかのように表現する危うさを感じます。

    そして、「神域を穢す」とのことですが、自分から見たら、川とそこに生きる生き物を穢しているのはどちらだろうかと思う。私の考えはおかしいですか?一つの側から見ると守る行為が他方から見ると穢す行為となる。反対もあり。

    物事は多方向から見ることもまた必要と今回のことを通して自分は学んだように思う。

    お互いの考えを尊重するという視点に立てば、代替品を使って形を残していくのも歩み寄りの解決策としていいのではないか。






  • #107

    大祝 (金曜日, 29 1月 2016 01:39)

    それは無理ですね。廃仏毀釈のせいで御頭祭を含め祭事の一切を取り仕切っていた守屋家が神長官としての役目を解かれてしまった時点で、既に御頭祭以外の神事を復活する事は出来なくなっています。この事は、ちょっと調べれば出てきます。前述のとおり、御頭祭は事前の冬篭り等の神事があってこその御頭祭ですから、完全な形に戻す意味がないのです。

    それと、氏子さん達の総意というのはほぼ間違ってないと思いますが。現実問題、今まで廃止か、存続かの論争が氏子間で繰り広げられていない時点でわかると思いますが。

    そこは、既に神域ですので。神様の領域ですので。まず、神事のために川に入る人たちはお祓いを受けているはずです。お祓いは禊と同じ。その禊すらせず、どこの馬の骨ともわからん人間が神域の川に入るわ、わけのわからん事をいうわでは氏子さん怒られて当然なんですよ、この胡散臭い連中は。生き物を穢という考えは分かりますが、それに当てはまるとすれば環境破壊をしているすべての人間となるでしょう。

    歩み寄りも何も、この連中は氏子さんのタブー以前に常識からして外れていますからね。神域に勝手に入る、こんな神事は悪だ、悪習だからすぐにやめろだのとわけのわからない事を言う、平気で他人の信仰心を傷付ける。そんな連中に、歩み寄りなどするのはよほどのバカかお人よしでしょうね。
    誰だかわからない人間に、「あんたの信仰している神は悪い奴だ、今すぐ信仰をやめろ!」とか言われて、はいそうですかという人間が大勢いるとでも?そも、生贄=悪習という考え自体が明治以降に入り込んできた西洋文化の影響である事は間違いないでしょう。
    ならば、インカやマヤの人々は悪習だと考えて生贄をしていたと?エジプトの人々は、死体をミイラにすることを悪習と考えていたとでも?あり得ません。信仰していた神のためだと思っていたからこそ、生贄を捧げたのです。信仰していた生死観に基づき、ミイラにしていたのです。
    諏訪の蛙狩り神事も、同じです。蛇神だと信じられているお諏訪様に、蛇の好物を捧げる為に蛙を捧げているのです。

  • #108

    匿名希望再度 (金曜日, 29 1月 2016 12:40)

    「氏子さんの総意」については個人的に知っている氏子さんが「カエルを刺し殺すなんて知らなかった。知らない氏子は多い、昆布やお米かなんかを備えればいいものを!恥ずかしい」と言っています。存続または廃止論争がなかったのは、是としているわけではなく、結構知らない氏子さんも多いからだとその氏子さんはおっしゃっていましたよ。

    「常識から外れている」については常識とは何だろう? 法治国家では法が最低限の常識なので、管轄の行政から許可をとって合法的に抗議活動をしているほうに常識があるということになります。

    「神様の領域です」については、この川がshinikiiであるという定義は一般的ではなく、ましてや諏訪大社所有の川でもなく、この川は国民の国土であり、行政に管理権があるというのがこの川の正しい唯一の定義です。

    「蛇の好物」についてですが、蛇の神様を信じるのも信仰の自由ですが、蛇の好物ならば蛇の健康によいペットフードをそなえるのもいいと思う。

    歩み寄りこそshinji存続のために必要な手段だと思います。蛙も人形か何かにすればよい。

    愛護団体のほうは本当は廃止させたいところを代替品に譲歩していえうので、すでに歩み寄っていると思います。

  • #109

    大祝 (土曜日, 30 1月 2016 01:31)

    普通、神事は神職や氏子総代など、偉い方々が取り仕切るのが殆どですからね。第一に、神事に関わらない者が神事の意味自体を理解されていないからだと思いますが。歴史背景だのを知っている人自体が、氏子三の中に少なくなってしまったからでしょう。御柱祭とて、近年ではイベントに近くなってしまっていますし。

    ほう、では法律さえ守っていれば他人からの顰蹙を買おうが、よそ様の場所にずかずかと踏み込んでいいという事なんですね?親から教わる常識もいらないと。そういう事なんですか。なるほど、通りで常識を知らない方なわけだ。

    国の管轄だ野は、所詮定義的なものでしかなく、ましてや諏訪大社は古事記にも名が出るほど古い神社なのですが?その時代に、諏訪市も日本として河川を管理する仕組みができていたんですか?そういう深いところまで考えましょう。

    蛇のペットフード?お供え物に?馬鹿馬鹿しい。何度もいうように、神様ですからね。家で飼ってるペットじゃないですからね。

    神事を存続させるか否かは、諏訪大社が決める事でこの団体が決める事じゃないです。ましてや、氏子でも無い者が決める事じゃありません。勿論、私は現在の形での神事継続を断固支持しますが。

    だから、代替え品に変えるとかいう話ではなく、この連中の態度がおかしいんです。ヘイトスピーチに対して中指立てるような金里香と同じようなものですよ。諏訪大社側の神経を逆なでして何が歩み寄りですか。

  • #110

    匿名希望最終投稿 (土曜日, 30 1月 2016 09:28)

    大祝さんのコメントから、問題点が浮き彫りになってきました。

    やはり「氏子さんの総意」ではないということですね。神事を仕切る一握りの「偉い方々」以外の氏子さんの多くが歴史背景などを知らないと、大祝さん自ら認めましたね。
    言葉の使い方には誠意が求められます。

    「よそ様の場所にずかずかと」については、この川が特定の誰かのものではなく行政管理の河川であることからして正確な表現ではありません。また誰もが許可をとってイベントを行うことは可能です。諏訪大社がイベント(奇しくも大祝さんは神事がイベント化しているとおっしゃった)をするのも許可さえ取れば自由です。

    「古事記の時代から」とおっしゃるならば、有意義なものは存続するし、そうでないものは消えるか変貌していくでしょう。
    また、形は変わっても、精神を受け継ぐことはできるはず。五穀豊穣、国家安寧を祈る心は誰にでもあります。鹿の首から剥製やシカ肉ジャーキーへ実際のところ変化したように、蛙が人形や絵馬やペットフードなどに変わったところで祈りの心を失うとは思えません。

    ヘイトスピーチにも言及されましたが、ヘイトスピーチをどう考えるかという時に、一人の人の行動をあげて批判し、そのこと自体の本質から離れて語るのは誠実な表現ではないと思います。あくまで問題の対象ははヘイトスピーチの是否であるように、今回は蛙狩り神事の改善の必要性についてです。 

    大祝さんとやりとりしてみて、明らかになったことも多く感謝しています。
    私は神社にお参りにも行きます。
    ただ、それは神社の経営者?や行事イベントに敬意を払ってのことではなく、あくまで自分の心と向き合うためです。神社は一握りの神職や氏子さんだけのものではありません。どういう形にせよその行為について批判が出れば、一度再考してみる姿勢も必要なのではありませんか?

    大祝さん、時間をかけて対話の相手をしてくださってありがとう。
    大祝さんが教えてくれた冬ごもりのことなどはとても勉強になりました。
    大祝さんが何かを大事に丁寧に生きていることも伝わってきます。

    ただ、視点を変えると物事が全く別の様相を呈してくることも理解してもらえたらと思います。

    コメント欄を提供してくださった管理者さんにお礼を言います。

    諏訪大社がこの問題を深く考え、反対運動をなさっている人たちと面会対話し、解決方法を見い出されることを願っています。






  • #111

    大祝 (土曜日, 30 1月 2016 15:51)

    お偉い様が決定された事が、全てなのはどこも一緒ですからね。それがすべてなんです。総意なんです。そこを勘違いされないように。

    大体が、こういう団体は他人の気持ちを考えない。イノシシやシカに作物を食い荒らされている所で駆除をしようとしても、「動物を守りましょう」等と頓珍漢なことをいう。都会の中でぬくぬくと暮らしているような連中が汗水流して作った作物を食い荒らされるという気持ちを理解できるはずfが無い。要するに、机上の空論なんだよ。綺麗ごとばっかり言って、心情を考えない。いい加減、こういうい団体はペットや捨て犬、捨て猫などの問題に力を入れていればよい。

    諏訪大社には、神事の継続を強く要望します。

  • #112

    何を「正気」と感じるか (土曜日, 20 2月 2016 12:29)

    神事ねぇ・・。神の名を語って、金儲けしてる輩が洗脳するために都合よく行っている愚行であることは明らか。動物(暴力・殺戮から逃げる等々、感情を持った命)を人間の都合で苦しめたり殺すことを正当化しようとしてる輩、いくら屁理屈並べても無駄だよ。常々思うが、そういう輩共は、同じ目に合わないと気付けないんだね。例えば「進撃の巨人」観ても気付けない? 人間より暴力的で殺傷能力が絶対的に強い愚かな種族がいて、人間を無差別に食い殺してても、本当に正当化するのかい?
    例えば、「痛みのわかる人間」だらけのコミュニティと、「弱肉強食。強いものが弱いものを苦しめたり殺したりするのは当然と考える人間」だらけのコミュミティ、平和で幸せに暮らせるのはどっちですか? 
    生きた動物を生贄にすれば救われる などという、100%確実な「単なる迷信」のために、大切な命を犠牲にしている愚行を止めるのは、当然のことだ。
    それは、「魔女狩り」と呼び、迷信のために女性を磔にして焼き殺すことを正気としている輩を、他の人間が止めるのと同じこと。
    伝統と誤魔化して継続していた愚行も、今となっては万人が愚行だったと感じられるように、少しずつ成長してきた。戦争もしかり。これからも、もっと成長して気付いていかなきゃね。

  • #113

    大祝 (土曜日, 20 2月 2016 13:14)

    何を正気と感じるかさん
    私からすれば、あなたの正気を疑います。まず、蛙狩り神事の正確な意味をご存じでは無いようですね。それと、この団体と同じく見せ物と神事の区別もついていらっしゃらないようですね。はっきりと言っておきますが、諏訪大社は決して見せ物として行っているわけではありません。観覧規制は行っていなかったので、あくまで見学者は勝手にきて邪魔せずに見ていくと言うことです。見せびらかすために行っているのではありません。人間のためではなく、神様のために行っているものですので。

    そのくせ神事を批判するとは言語道断。しっかりお勉強して下さいね。その上で、諏訪大社にご自分の意見を申されてはいかがでしょうか。

  • #114

    犬猫救済の輪からとんで来ました (月曜日, 29 2月 2016 13:06)

    主張は分かりますし、何も生きたままでなくとも・・・とは思います。
    楽に殺してからでなら人道的に特に問題があるようには感じません。
    たとえば魚を神様に奉納して、そのあとお焚き上げにして人間が食さなかったとして、
    それを残酷な行為だと子供に教えるのは逆に危険な気がしませんか。
    私たちの口に入る豚肉の中には、虐殺に近い形で殺される豚もいると聞きますが、
    だからといって豚は残酷な形で殺されている可能性があるから豚肉は遠慮しましょうと
    子供に教えることが健全な精神を育むことになるでしょうか。

    文書での抗議やインターネットなどの媒体を介して世間に問題を問いかけるのは賛成ですが、
    この問題をデモまがいの行為にまで発展させるのは、こういった団体の他の主張まで
    多くの一般の人を敬遠させる原因になるのではないかと懸念します。
    警察の手までわずらわせるほどのことかどうか、よく考えて頂きたいです。
    主張が正しく法に抵触しなければ、何をしても良いという考えでは、世の中が混乱します。

  • #115

    大祝 (月曜日, 02 1月 2017 16:03)

    このような愚行を今年もやるなどと言っていましたが、またやったのですか?懲りないですねえ。
    大体、動物虐待と言うなら、捨て犬捨て猫、更にいえば捨てられたカメなどは入らないのでしょうか?なぜ、最も身近な問題であるペット問題をゼロにする事に傾注出来ないのですか?
    今、この瞬間にも失われてしまうであろう命を助けることに傾注しないのですか?例え盆正月であろうとも、諏訪大社までわざわざ来て抗議活動をするよりも、もっとやるべき事があるのではないのですか?

    全てのペット問題を解決しても居ないのに、こんなことをしているような団体など支持できよう筈もないです。

お問い合せ

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全国動物ネットワーク事務局

茨城県つくば市(以下略)

 

〒305-8799

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